「数奇な運命」 原爆の記録として評価されながら3年間出版できず 記憶遺産目指す大田洋子『屍の街』(上)
原爆に被爆した作家が直後に書きつづった小説や詩、日記などの自筆原稿をユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に―。市民グループ「広島文学資料保全の会」(土屋時子代表)と広島市が共同で、被爆80年となる2025年の登録を目指し、国内選考に申請した。 15年と21年にも申請したが国内審査で落選、3回目になる。これまでに峠三吉や栗原貞子、原民喜の関係資料を申請対象としたが、今回は作家、大田洋子の『屍の街』(しかばねのまち)の自筆原稿を加えた。 『屍の街』は被爆直後の混乱を生き延びた作家が被害の実相をつぶさに描き、原爆が非人道的な兵器であることを訴えた貴重なルポルタージュだが、出版をめぐって検閲や自主規制に翻弄(ほんろう)され、数奇な運命をたどった。 その意味でも「世界の記憶」に加えることには大きな意味がある。(ノンフィクション作家、女性史研究者=江刺昭子) 『屍の街』はどのような作品か。原爆投下直後の場面を引用する(いくつかの版があるが、以下の引用はすべて1950年刊の冬芽書房版により、漢字は常用漢字に改め、現代仮名遣いを用いる)。
そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。(略)気がついたとき私は微塵に砕けた壁土の煙の中にぼんやりと佇(たたず)んでいた。ひどくぼんやりとして、ばかのように立っていた。 家は倒壊し、耳と背中に軽い傷は負ったものの、母たちと近くの河原に逃れ、三日三晩を過ごす。町は焼け崩れて瓦礫(がれき)の原になり、人びとがあいついで死んでいった。 大田洋子は広島市白島九軒町で被爆した。作家として東京にいたが、空襲が激しくなり、45年1月、母と妹が住む広島の家に引っ越していたのだ。 03年、広島県原村(現・北広島町)に生まれ、玖島村(現・廿日市市)で少女時代をすごした。29年に雑誌『女人芸術』に小説を発表して文壇デビュー。『中央公論』と『朝日新聞』の懸賞小説でそれぞれ一席になり流行作家になった。 被爆後の作品には、作家としての強い覚悟がうかがえる。『屍の街』から、一緒に歩く妹との会話を引用する。