「週半分の勤務でいいところをお願いします」と顰蹙覚悟のお願いをした医者に、教授が返した「意外なことば」
日本は今、「人生100年」と言われる長寿国になりましたが、その百年間をずっと幸せに生きることは、必ずしも容易ではありません。人生には、さまざまな困難が待ち受けています。 【写真】じつはこんなに高い…「うつ」になる「65歳以上の高齢者」の「衝撃の割合」 『人はどう悩むのか』(講談社現代新書)では、各ライフステージに潜む悩みを年代ごとに解説しています。ふつうは時系列に沿って、生まれたときからスタートしますが、本書では逆に高齢者の側からたどっています。 本記事では、せっかくの人生を気分よく過ごすためにはどうすればよいのか、『人はどう悩むのか』(講談社現代新書)の内容を抜粋、編集して紹介します。
思わぬ展開があることも
私事で恐縮ですが、私自身、成人期前期には思わぬ展開がありました。 大学を卒業したあと、まず大学病院で外科の研修医になり、翌年、麻酔科の研修医になりました。麻酔科に移ったのは、父が麻酔科医であったこともありますが、大阪大学の麻酔科は、「研修日」と称して週一日、余分に休日をくれたからです。その一日を小説を書くために使おうと思ったのです。 二年間の研修医期間を終えたあとも、引き続き麻酔科医として勤務する道を選び、大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)に就職しました。そこで二年間、麻酔科で勤務をしながら小説を書いていましたが、一向に芽が出ず、鳴かず飛ばずだったので、外科の医局にもどり、三年間、神戸掖済会病院に勤めました。外科にもどった理由は、このまま麻酔科医を続けていても仕方がないと思ったからで、途中下車症候群に近い状況でした。 外科医の仕事は忙しく、また、がんの終末期医療に打ち込んだせいで、亡くなる患者さんへの対応で苦悩し、いくら頑張っても望ましい看取りができないことで、燃え尽き症候群のようになりかけました。 そんなとき、ふと医局に積んであった「日本医事新報」という雑誌のバックナンバーを手に取り、何気なくページを開くと、「外務省の医務官募集」という記事が出ていました。外務省が海外の日本大使館に医者を派遣しているという内容です。派遣先はアフリカ、南米、東南アジア、中近東など、医療事情のよくない国がほとんどで、これでは行けないと思ったところ、最後にイギリス、フランス、アメリカ、オーストリアとあったので、それならと思い応募しました。医者のキャリアとしては大きくコースをはずれることになりますが、小説家を目指す気持ちが強かったので、特に気にしませんでした。 大使館がどんなところか、医務官は何をするのか、何もわかりませんでしたが、たまたま定員割れだったらしく、すぐに採用されてサウジアラビアに派遣されました。妻も少し遅れて幼い長男と長女を連れて到着し、リヤドでは次男を産みました。 それから、イラクのクウェート侵攻の最中にオーストリアに転勤し、さらにパプアニューギニアに赴任して、計九年間の海外生活を終えました。 帰国したのは四十二歳のときで、ブランクが長いので、外科医としては使い物にならず、海外でも書き続けていた小説も、何度か新人賞の候補にはなるものの受賞に至らず、医者としても作家としても、先の見えない状況でした。 日本で再就職するとき、ふつうの勤務医になると小説を書く時間が取れないので、 顰蹙を覚悟で、医局の教授に、「小説家になりたいので、週半分の勤務でいいところをお願いします」と頼みました。「ふざけるな!」と怒鳴られるかと覚悟していましたが、返ってきた言葉は、「おまえは自由でええな」でした。 しかし、医局長はかなり怒っていて、紹介されたのは老人デイケアを併設したクリニックでした。定年退職したようなロートル医者が行くようなところで、週三日の勤務希望では仕方ないかとも思いましたが、診察するのは外来もデイケアの参加者も高齢者ばかりでした。 医者の同級生たちは、すでに教授や准教授になっていたり、総合医療センターの部長や副院長に就任したりと、華々しいキャリアを積んでいました。私のように中途半端な勤務で、先行きの見えない者はひとりもいません。十七歳で小説家を志したあと、デビューできる保証もないまま、同人雑誌で売れない小説を書き続けていた日々は、お先真っ暗で、まるで地中を這いまわるセミの幼虫のようでした。それが三十一年間も続きました。 悶々とした思いで日々を送っていたところ、帰国三年後の二○○○年に介護保険制度が施行され、世間の目が高齢者問題に向きはじめました。老人デイケアのクリニックが立ち退きになったため、今度は在宅医療のクリニックに勤め、認知症や脳卒中、末期がんの患者さんの家をまわることになりました。出勤は週三日ですが、夜中や休日の呼び出しもあり、在宅で何人もの患者さんを看取りました。 そんな中で、老人デイケアの経験をもとに、高齢者の麻痺した手足を切断するマッドドクターを主人公にした小説、『廃用身』を書き、帰国後六年にして、ようやくデビューすることができたのです。 振り返ってみると、三十三歳から外務省で九年間も海外生活をしたことは、医者としてドロップアウトしたのも同然で、かなり無謀だったと思います。帰国後、高齢者医療に携わったときも、はじめは意気が揚がりませんでしたが、結果的にはそこで得た経験をきっかけにデビューすることができたのです。若いころからひたすら努力し、頑張り続けてもダメだった夢が、思いがけないところで実現したわけです。当時、四十八歳。もう無理だろうなと何度もあきらめかけたときでした。 さらに連載記事<じつは「65歳以上高齢者」の「6~7人に一人」が「うつ」になっているという「衝撃的な事実」>では、高齢者がうつになりやすい理由と、その症状について詳しく解説しています。
久坂部 羊(医師・作家)