長引く森友問題 改ざんを生んだのは制度か政治手法か
日本政治の歴史でこれほど公文書が注目を集めたことはなかったかもしれません。森友学園や加計学園をめぐる一連の問題をはじめ、陸上自衛隊の日報問題などでは、行政が作成した文書がなかなか見つからなかったり、内容が改ざんされたりしたことが相次いで明るみになりました。 【写真】たかが公文書? 改ざん問題が孕む国民と政治家の断絶(前編) しかしこうした問題は、私たちの生活にはさほど影響がないと感じている人もいるでしょう。「たかが公文書」なのでしょうか。この問題が孕む議会制民主主義(デモクラシー)の危機は、どんな未来を導く可能性があるのでしょうか。 議会政治制度や英国政治に詳しい成蹊大学法学部の高安健将教授に、2回にわたって寄稿してもらいました。
「具体的な指示」よりも深刻な構図
今回の森友学園問題は、日本の政治と政策決定にとって多くの危うさを露わにした。とりわけ、公文書という観点からすると、そこには近年起きている他省での問題にも通じる歪さがある。防衛省を見れば、陸上自衛隊の作成した日報の破棄問題があった。ここでは大臣の発言と政府の方針に矛盾する文書の存否が問題となった。文部科学省では、加計学園問題に関連して、首相の権威を背景に、首相の補佐役たちが同省に対し判断の方向性を示唆する発言をしたことを示す文書の存在が注目を集めた。不適切な文書が残されたとの意見も聞かれるが、それは見当違いな批判である。奇妙・不適切な要素が政策決定に入り込んでいれば、記録に残すのは当然である。 厚生労働省では、裁量労働制に関連した残業時間のデータに不備があり、データが政府の方針に沿うような結果に作成されていた。財務省の公文書改ざん問題にも言えることだが、首相や大臣が作為的にデータを捏造したり、公文書の改ざんを指示したりすることは一般的には考えにくい。首相や大臣たちは驚き、怒りに震えたかもしれない。 しかし問題は、文書の捏造や改ざん、破棄、隠蔽の指示の有無ではない。政治家が、政府内外の議論の積み上げや手続き、政策判断に必要な事実を軽視し、自らの発言や意向がこれに優先される構図を政府内につくってしまったことこそが、問題なのである。具体的な指示よりも、はるかに深刻で広い範囲に影響しうる権力である。それも無自覚であったとすれば、なおさらである。 昨年、森友学園への国有地売却問題に関連した資料を「存在しない」とした当時の佐川宣寿理財局長の国会答弁に、不信感を抱いた人も多かったのではないだろうか。実際にその後、資料は次々と「発見」された上、改ざんされていた事実も白日の下に晒された。しかし、首相も財務相もその佐川氏を「適材適所」と胸を張って国税庁長官に任命したのである。官僚たちが政権からどのようなメッセージを受け取ったかは明らかであろう。官僚に対するこうした処遇をみると、無自覚であったとも言い難い面がある。(もっとも、佐川氏のその後をみると、官僚たちの受け止め方も変わり始めているかもしれないが)。 本来、官僚は、実務の担当者として首相や大臣を諌(いさ)める役割も負っている。官僚は時の政権と同時に、「国民に仕える」責任があるからである。政治家の側も、両義的な役割と責任を持つ官僚を尊重し、共存することを求められている。官僚は政治家の下僕ではない。しかし官僚が自律的な役割を果たそうとするとき、それが省益や局益、族議員や業界の利益を代弁していると疑われてしまう。残念ながら、こうした疑念が完全な誤解であるとは言いにくいところに、日本政治における政官関係の難しさがある。