<福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い
初期被ばく量は分からないまま
福島から遠くへ避難したと言っても、すぐ近くで原発事故が起きたという現実は消えません。内部被ばくの検査は事故後3年経ってから行われたため、初期被ばくはわからないままです。 「リスクがゼロにはならないので、(内部被ばく量を)下げる努力をするしかない。例えば、水は買うことにしている。米は秋田や新潟ものを買っている。個別に見ればきちんと検査をしている食品もあるでしょうが、産地は選ぶようにしている。ただ、(現住地の古河市で買う食材は)茨城産としか書いていないため、具体的にはどこかは分からない。住宅の資材だって心配といえば心配」 妻のせりなさんは毎日の食材には気を使っています。ただ、心配すればするほど、どこまで心配できるのか切りがないとして、こう話しました。 「初期に被ばくしたものを子どもには残したくない。でも、今は分からなくても、影響が10年後、20年後になるのかもしれない。買ってきた水も、セシウムが入ってないとは言い切れない。外食産業も分からない。どこの魚、肉を食べているのかも……。日本に住む限りは切っては切れない問題ですが、どうしようもない。諦めている。だから、そんなに神経質になってはいないです」
原子力標語を“書き換え”
大沼さんは、これまでの4年間で、双葉町に何度も一時帰宅しました。その際、原子力の標語について反省の気持ちを込めて、標語の“書き換え”を行なうようになりました。標語の一部を別の言葉にし、その言葉を記した紙を持ちながら、写真を撮影しているのです。 「原子力 明るい未来 ……じゃなかった」 「原子力 制御できない エネルギー」 「脱原発 明るい未来の エネルギー」 「核廃絶 明るい未来の エネルギー」 これらの言葉はその時に思いついたもの。そして、看板近くには自らの心境を書いたパネルを設置しました。 新たな未来へ 双葉の悲しい青空よ かつて町は原発と共に「明るい」未来を信じた 少年の頃の僕へ その未来は「明るい」を「破戒」に ああ、原発事故さえ無ければ 時と共に朽ちて行くこの町 時代に捨てられていくようだ 震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい いつか子供と見上げる双葉の青空よ その空は明るい青空に 震災3年 大沼勇治 「(帰るべき故郷を)失ってから考えるようになったんです。事故後の写真を撮ろうとも思いました。子どもたちに伝えないといけない」