<福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い
社会人になり原発との「共存」模索
大沼さんは高校卒業をして一度、県外に出ましたが、大学を卒業してから双葉町に戻ってきました。原発に対して抱いていた危険なイメージは徐々に薄らいできていき、むしろ、不動産屋に勤務していたことから、東電と共存することを考えていくようになりました。 「当初、漫画喫茶を作ろうとしたが、銀行の融資が通らない。一方で、東電社員のためのアパートを作ろうとしたら、融資が通る。東電は人生の成功モデルという感じだった。部屋代の半分は会社が出していたので、本人は負担を感じてないようだった」 標語の看板の近くに、東電社員らが利用するためのオール電化のマンションを建設しました。大沼さんは原発とともに成功するパターンを見つけていったのです。ただ、将来は双葉町から東京へ移り住もうと考えてもいました。 「双葉では職業を選べない。月給も少ない。実家住まいなので家賃はかからなかったが、お金も貯まらない。そして、事故があって180度変わった」
震災、原発事故で状況が一変
2011年3月11日午後2時46分、大地震が東日本を襲います。大沼さんは、妊娠7か月の妻のせりなさん(39)に電話をしました。 「早く逃げろ」 地震は断続的に30分も揺れました。「この地域は地震がないので油断をしていた」という大沼さんでしたが、そのうち、いろんな情報が入ってきました。会社内では「東電関係者が逃げている」という声も聞こえてきました。しかし、すでに周囲の道路はどこも大渋滞。双葉町から隣の大熊町に行くまでに2時間もかかりました。その後、南相馬市や相馬市の道の駅に避難していましたが、2日後にはせりなさんの実家がある会津地方に避難しました。 「会津は原発から離れているし、磐梯山もあるため、放射能をさえぎるのではないか。何かあっても、新潟に行けばいいと思っていた」 結局、3月末には、身ごもっていた子どもが放射能の影響を受けないようにと、親戚が近くに住んでいることもあって、愛知県安城市に避難、借り上げ住宅に住む事になりました。同市では、脱原発についての講演を30回以上も行いました。避難暮らしのなかで、子ども2人が生まれました。