大崎善生さんへ/島田明宏
【島田明宏(作家)=コラム『熱視点』】 競馬ファンとしても知られた作家の大崎善生さんが8月3日、下咽頭がんで亡くなった。66歳だった。 札幌出身で、早稲田大学卒業後、雑誌「将棋マガジン」編集部を経て、「将棋世界」編集長をつとめた。2000年にノンフィクション『聖の青春』で第13回新潮学芸賞を受賞。2001年2月、退職して作家活動に入り、『将棋の子』で第23回講談社ノンフィクション賞を受賞。そして、2002年には初めての小説『パイロットフィッシュ』で第23回吉川英治文学新人賞を受賞するなど、ノンフィクション作家としても小説家としても活躍した。 2014年の「第30回優駿エッセイ賞」から同賞の選考委員をつとめた。私も同じタイミングで選考委員となり、昨年まで毎年、最終候補となった16作品についての意見や感想、評価を披露し合った。 古井由吉さん、吉永みち子さん、大崎さん、優駿編集部の山上昌志さん、そして私の5人でスタートしたのだが、古井先生が2017年限りで体調を考慮して辞退し、翌19年からは残った4人でつづけてきた。 いつも大崎さんは、セーターにチノパンといったカジュアルなスタイルで選考委員会に参加していた。札幌の実家の隣が、ベストセラーとなった『挽歌』などで知られる作家の原田康子さんの家だったということも話題になったのだが、それについて大崎さん自身に聞いても「はい、隣でした」と小さく笑うだけで、特段話のタネになるようなすごいことだとは思っていないらしかった。 一口会員として数十頭を所有し、愛馬の応援のため香港に行ったことや、パーティーで松岡正海騎手と語ったことなどを、選考委員会終了後、打ち上げ会場までの移動中、楽しそうに話してくれた。また、映画化された『聖の青春』がヒットしたことについて話したとき、「おかげで家計が潤いました」と冗談めかして笑っていたことも印象に残っている。 愛馬に対する思い入れも、優駿エッセイ賞の候補作に対する論評も、そして、著作に対する自己評価も、熱くなりすぎないよう、つねに感情の波を抑えようとしているかのような、静かで、優しい人だった。 しかし、3年前、2021年秋に行われた優駿エッセイ賞の選考委員会のときは、歩くことも、長く話すこともつらそうに見えた。おそらくそのころから病魔に冒されていたのだろう。翌22年に咽頭がんとわかった時点ではすでにステージ4だったという。 それでも、22年も、昨年も、優駿エッセイ賞の選考委員会に、候補作の評価を書面で送るという形で参加した。それも、いわゆる「寸評」というレベルではなく、ひとつひとつの作品に対し、とても丁寧に感想や思いを記していた。しかも、22年より昨年のほうが意欲的な姿勢が伝わってくるものだったので、奇跡の回復もあるのではないか、と私は思っていた。 22年も昨年も、大崎さんが送ってきた評価を編集者が読み上げる形で行われた。特に昨年は、そこに大崎さんがいるかのように錯覚するほどだった。 おそらくほかの選考委員も気づいていただろうし、私自身はもちろん自覚していたのだが、候補作に対して最も対極的な評価をするのが、大崎さんと私だった。大崎さんからの書面に、自分とは違った見方をする委員もいるかもしれないが――といったように先手を打つ文言があってギクリとするなど、緊張感は、対面で行われていたときと変わらなかった。 小説家としては、村上春樹さんの影響から逃れられない、などと一部から見られていることを気にしていた。それに関して、20年以上前になるが、私が大崎さんにインタビューした記事から抜粋したい。 <そうじゃなくて、村上さんが読んでいた作家と、私が大学時代に読んでいた作家が同じだった、ということだと思います。カート・ヴォネガット・ジュニアやジョン・アーヴィング、フィリップ・K・ディックといった当時のアメリカの現代文学がものすごく好きで、ひたすら読みまくっていたんです>(「ブック・アサヒ・コム」より) 私は、大崎さんのすっきりとした透明感のある小説も、精緻でありながら骨太なノンフィクションも、まっすぐな競馬観も大好きだった。 大崎さん、いろいろありがとうございました。安らかにお眠りください。