「太平洋戦争敗戦」直後の「日本」に追い打ちをかけた「南海トラフ巨大地震」…そのあまりに「甚大すぎる被害」
地盤沈下と堤防決壊
1946年12月21日午前4時19分過ぎ、潮岬南方沖78キロメートル、深さ24キロメートルを震源とするM8.0の昭和南海地震発生。2年前の昭和東南海地震と同様に陸のプレート(ユーラシアプレート)の下に、海のプレート(フィリピン海プレート)が沈み込む南海トラフ沿いの西側領域が動いた地震。当初は「南海道地震」とも呼ばれた地震で、この領域が動いたのは1854年安政南海地震から92年目。破壊開始点でもある震源は、2年前の昭和東南期地震(潮岬沖)に隣接していて、東南海地震は東側へ「半割れ」が起き、南海地震は西側へ向かって断層破壊が進行していったと推定されている。高知測候所で記録された震動時間は約9分間だったが、とくに激しく揺れていた時間は1~2分といわれる。 震度6は西大寺(さいだいじ・岡山県岡山市東区)、五郷(いさと・三重県熊野町)、郡塚(ぐんげ・兵庫県淡路市)、津田(つだ・香川県大川郡)、下高瀬(しもたかせ・香川県三豊町)、野根(のね・高知県安芸郡)、沖ノ島(おきのしま・高知県南西部)など。震度5は、福井(福井県)、岐阜(岐阜県)、津(三重県)、尾鷲(三重県)、彦根(滋賀県)、洲本(兵庫県)、橿原(かしはら・奈良県)、和歌山、潮岬(和歌山県)、境(鳥取県)、徳島(徳島県)、高松(香川県)、多度津(たどつ・香川県仲多度郡)、宿毛(すくも・高知県)、大分(大分県)など、九州・四国・紀伊半島・中国地方・信州・北陸など広い地域で強い揺れが観測されている。 この地震による死者・行方不明者は1,443人、家屋全壊11,506戸、半壊21,972戸、流失2,109戸、浸水33,093戸、焼失2,602戸の深刻な被害を出した。また、震源から遠く離れた長野県でも家屋全壊2戸、半壊4戸。滋賀県で家屋全壊8戸、半壊2戸。岐阜県で家屋全壊547戸、半壊751戸。鳥取県で家屋全壊22戸、半壊13戸。島根県で家屋全壊139戸、半壊308戸。岡山県で家屋全壊1,092戸、半壊3,757戸など、震害による被害は太平洋沿岸だけでなく、内陸部、瀬戸内海、中国地方、日本海側にまで及んでいる。 中でも四国高知県の被害は甚大だった。高知県の主な被害は、死者・行方不明679人、家屋全壊4,865戸、半壊9,073戸、流失566戸、浸水5,608戸、焼失196戸に上る。とくに高知市へ津波第1波が地震発生約20分後に襲来し、一番大きかったのは第4波で、それでも浦戸湾奥で約60センチメートルとさほど高い津波ではなかった。しかし、もともと海抜ゼロメートル地帯だった上、地震によって約1.2メートルも地盤が沈降。また、地震の揺れで河川堤防が約11カ所で決壊し、長期にわたり下知地区や潮江地区を中心に約1,000ヘクタール(10)が浸水。当時の高知市の人口約14万人のうち約2万人が被災したといわれている。戦時中市外へ転出していた約4万3千人のうち、3万2千人ほどが終戦後高知市に戻ってきていて、食料品や日用品の不足だけでなく、深刻な住宅難にも陥っていた。そこへ巨大地震が襲い、多数の住宅損壊と長期床上浸水が発生してしまったのだ。市は昭和国民学校や神社、劇場など21カ所を避難所にしたという。 空襲被害を免れた高知県東部でも家屋の倒壊が多かった。須崎市では家屋全壊198戸、入野(黒潮町)では家屋倒壊率70%、中村市(四万十市)では地震動やその後の火災などで家屋損壊率80%以上と推定されている。また、四万十川に架かっていた四万十鉄橋も両端を残して落橋。 震源に近い和歌山県では死者・行方不明269人、家屋全壊969戸、焼失2,399戸。とくに新宮市では地震直後に出火した火災が16時間燃え続け、家屋焼失2,398戸、全壊600戸、半壊1,408戸に及んだ。