「太平洋戦争敗戦」直後の「日本」に追い打ちをかけた「南海トラフ巨大地震」…そのあまりに「甚大すぎる被害」
戦争末期、大空襲(焼け野原)後の大地震
現時点における直近の南海トラフ巨大地震は太平洋戦争終戦翌年の昭和南海地震である。その昭和南海地震の前年、1945年7月3日午後4時23分、マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの基地から出撃したB-29爆撃機501機が、硫黄島を経由して翌未明、姫路・高松・徳島・高知に向かった。4日午前1時52分ごろ、高知市上空に飛来したB-29大型爆撃機125機は、約1時間にわたって1,060.8トンの焼夷弾を投下。この凄まじい空爆で、高知市では死者・行方不明者423人、重軽傷者289人、全焼壊1万1,840戸、半焼壊108戸という被害を出し、ビルも民家も跡形もなく高知市街地の約70%が焦土と化した。 【画像】「南海トラフ巨大地震」で日本が衝撃的な有り様に…そのヤバすぎる被害規模 米軍データによると、爆撃部隊はアメリカ陸軍航空軍・第21爆撃集団所属・第73爆撃団だ。爆撃に加わった将兵1,527人。爆撃目標は高知市市街地とされ、軍需産業や軍隊ではなく、都市の住宅や民間人が攻撃目標だったという。もうそれは戦争ではない。すでに制空権も防空戦闘能力も失った丸腰の寝静まった町と人々を焼き払う暴挙、それは正気を失った無差別殺人に他ならない。どれほど恐ろしかったことか、どれほど口惜しく無念だったことか。こうした無差別空襲は高知だけでなく全国で行われていた。 太平洋戦争終戦の翌年、昭和南海地震が発生した1946年は、1月1日・昭和天皇のいわゆる「人間宣言」から始まった。同月・秋葉原電気街が露店として開業、2月23日・山下奉文元陸軍大将の絞首刑執行、3月21日・宮城県女川港で巡航船金華丸転覆(22tの小さな船に、食糧買い出しの約230人が乗船・103人死亡)、4月19日・GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が東京湾海底から旧日本軍の金塊など(数十億ドル?)引揚げ、5月3日・極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷、5月22日・第一次吉田茂内閣成立、5月31日・昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問、7月1日・米国信託統治領ビキニ環礁で原爆実験、8月1日・闇市の全国一斉取り締まり、10月1日・上野駅前に引揚げ者マーケット「アメ横」誕生、11月3日・日本国憲法公布、11月23日・青森県五所川原大火(841戸焼失)、12月7日・シベリア引揚げ船第1船が舞鶴入港など。 終戦から一年、時の大蔵大臣渋沢敬三が「米が1千万人分不足で、1千万人が餓死するかもしれぬ」と外国人記者クラブで不用意発言をするほどの厳しい食糧難の中、人々は生きることに必死の時代だった。大空襲で焼け野原になった高知市街地に、ようやくバラック建ての家が立ち並び、食料不足・物資不足にあえぎつつ廃墟から懸命に立ち上がろうとしていた人たちを、震度6の大地震が追い打ちをかける。