“不仲エピソード”だらけの昭和演歌二大巨頭 「三波春夫」に先立たれた「村田英雄」が思わず漏らした一言
わだかまりなんてありえない
三波の長女で「三波クリエイツ」社長の八島美夕紀さんも、「2人の間にわだかまりなんてありえない」と言う。 「村田さんは、私の母を昔から知っていて、『ねえさん、ねえさん』と気さくに呼んでくれた。歌手というのは自分のオリジナリティを確立して生き残るのに必死で、舞台で3センチ横に誰が立とうが、気にしている余裕もないんです。確かに売り出す側とすれば、『2人は好敵手だ』とした方が話題性がある。周りの戦略が2人をライバルにしたんでしょう」 些細なことで目くじらを立てるには、2人とももはや、大物になりすぎたということもある。
三波に先立たれると「寂しいなぁ」
その晩年も全く対照的だった。三波は、親交のあった永六輔が、「歌う学者」と呼んだほどの勉強家で、平成10年には『聖徳太子憲法は生きている』(小学館)という本も出版。 かたや村田は、ビザ申請の性別欄に堂々「週3回」と記入したとか、飲み屋に行って「おい村田だ! ボルト出せ!」と言ったとか、2人が共演する舞台で「三波は上手から、村田は下手から登場」という指示書きを見て、「どうしてオレがヘタなんだ!」と怒ったとか、天然ボケの“村田語録”がバカ受けして、一躍ヤングの人気者となった。だが、糖尿病の悪化でついには両足を切断。 それでも意気軒昂だったが、平成13年4月、77歳の三波に先立たれると、「何となぁ、寂しいなぁ」と絶句。 「おれが右足を切断した時に心配して電話をかけてきてくれた。彼の活躍がおれには刺激であり励みだった。全然、犬猿てなもんじゃないよ」 そう言っていた村田英雄も、三波の後を追うように、翌平成14年6月に73歳で他界。本物の芸人魂が息づいていた昭和という時代の型破りのライバル譚である。 福田ますみ(ふくだ・ますみ) 1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。 デイリー新潮編集部
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