台湾人が体験した原爆 ノーベル平和賞「埋もれた歴史を知る契機に」
広島と長崎に投下された原爆は、日本統治下の台湾や朝鮮半島出身者にも大きな被害をもたらした。だが、時の経過とともにその事実は語られなくなっている。関係者らは日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞を機に「平和への思いを継承するきっかけになってほしい」と期待する。 【写真特集】記録報道「ヒバクシャ」で証言した被爆者たち 台湾南部・嘉義(かぎ)出身の医師、王文其(おうぶんき)さんは爆心地から700メートルの長崎医科大(現在の長崎大学医学部)付属病院で診察中に被爆した。爆風で飛ばされたものが顔や胸などに当たって重傷を負い、同僚らに助け出されたという。 「同じ場所におった方々が全滅。私が生き残ったのは奇跡です」。王さんが記した被爆者健康手帳の申請書類には、日本語でそう書き残されている。 日本統治時代に嘉義の農家に生まれ、旧制嘉義中学を卒業後の1937年に長崎に留学。皇民化政策が推進された当時の台湾では、優秀な学生らが日本の大学に進んでいた。長崎医科大では同窓生らの調査で、18人の台湾人が被爆死したことが判明している。 46年に帰郷した王さんは内科医院を開業し、7人の子どもを育て上げて2015年に96歳で他界した。「8月9日が来るたび、父は家族にあの日の出来事を語っていました」。長崎で1941年に生まれた長男の王柏山さん(83)は振り返る。母校の流れをくむ嘉義高校の招きで、学生らの前で講演を行ったこともあるという。 王さんは長らく日本政府による援護の対象外に置かれていた在外被爆者の一人として慰謝料を求める訴訟に参加し、12年に賠償を認める和解を勝ち取るなど、台湾人被爆者の経験を訴えてきた。だが近年は当事者の死亡や高齢化で、その歴史を知る人は限られている。 王さんの五男、王柏東さん(68)は日本被団協のノーベル賞受賞について、「生きていればとても喜んだだろう。あの日死んでいたかもしれない父は命の大事さを痛感していた。父の理念と重なる賞が世界をより平和にすることにつながってほしい」と期待を込めた。 厚生労働省によると、在外被爆者は3月末時点で2388人。国・地域別では韓国(1678人)が最多で、台湾は「10人未満で、個人情報保護の観点から人数を公表していない」という。【嘉義(台湾南部)で林哲平】