三国志の名賦「七歩の詩」と「銅雀台の賦」は、曹植の作品ではなかったのか?
『三国志』の英雄、曹操の息子といえば、よく知られるのが曹丕(そうひ)である。曹操の跡を継ぎ、魏(ぎ)の初代皇帝となった嫡男だが、その弟に曹植(192~232)がいた。李白や杜甫(とほ)と並び、中国史を代表する詩人でもある。 曹植は幼くして天才的な詩文の才能を持っていた。10歳を過ぎる頃には古今の詩を暗誦でき、思いつくままに色々な文を書いた。父の曹操も「どうせ代筆だろう」と疑ったほどだったというから、よほどのものだったに違いない。 ■曹植の有名な賦はどちらも創作か? そんな曹植の鬼才ぶりは『三国志演義』でも有効に使われる。彼が詠んだといわれる二つの賦(ふ)が、物語において重要な役どころとして出てくるからだ。ひとつが「銅雀台賦」(どうじゃくだいのふ)。 物語における、赤壁の戦いの前に諸葛亮(孔明)が紹介するものだ。すなわち「銅雀台に二喬姉妹を連れてきて、朝夕の楽しみをともにしたい」という曹操の野心が入った賦を暗唱して周瑜(しゅうゆ)に聴かせる。二喬のひとり、小喬はすなわち周瑜の妻で、彼を激怒させ戦いに臨ませるための策略として利用される。 もちろん、これはデタラメ。「銅雀台賦」自体は曹植の作品だが「二喬姉妹を連れてきて~」の一節は、曹植がつくった原文にはない。また208年当時、曹操はまだ銅雀台を築いていない。ようは『三国志演義』で創作アレンジされたものだが、物語的には諸葛亮が捏造した、つまり「孔明の罠」だったといえなくもない。 もうひとつが「七歩詩」(しちほのし)で、これも『三国志演義』に出てくる。兄・曹丕に「七歩あるく間に『二頭の牛』に関する賦をつくれ」などと無理をいわれ、実際に七歩あるく間につくってみせたというもの。そして、曹丕はさらに「兄弟に関する賦をつくれ、兄弟という字は使うな」とまたも難題を出す。ところが曹植は、 「煮豆燃豆 豆在釜中泣 本是同根生 相煎何太急」(豆を煮るに豆がらを燃やす。豆は釜の中で泣く音をたてる。もともとは同じ根から生まれたものなのに、なぜそんなに責めるのですか) あまりにも見事な出来に曹丕も涙し、深く恥じ入った・・・という筋書きだが、このエピソードも賦自体も正史『三国志』にはない。5世紀に劉義慶が編纂した『世説新語』(せせつしんご)が初出とされる。意外にも早い成立だが後世、曹丕の残酷さをあらわし、また貶めるため小説にも使われたとみられる。 こうしたエピソードから、曹植は文人肌の人物と思われがちだ。しかし、北方の異民族である烏桓(うがん)討伐、西方で馬超軍や張魯軍と激突した潼関・漢中遠征など、父に従って戦場に出ている。 211年、潼関の戦いに従軍する曹植に対し、留守を預かることになった兄の曹丕は「感離の賦」を贈った。それに対し、曹植も陣中から「離思の賦」を書き送った。病身で慌しく出立したため、兄に別れを告げる暇もなかったことを詫びる内容で、両者の仲が当初は悪くなかったことを示す。