『ナミビアの砂漠』雑踏の中から発見されたヒロイン
麻酔状態からのサヴァイヴ
整理されていない感情を整理のされないまま吐き出しているという点において、『ナミビアの砂漠』の河合優実の演技は、ジョン・カサヴェテス映画のジーナ・ローランズの魂に接近しているという評価もあるだろう。実際、河合優実はインタビューで『ラヴ・ストリームス』(84)のジーナ・ローランズの演技をフェイバリットに挙げている。ジーナ・ローランズもさることながら、個人的にはホウ・シャオシェン監督の『ミレニアム・マンボ』(01)におけるスー・チーの彷徨のイメージを本作の河合優実に重ねている。特にカナが背後から首元にキスをされるショットには、『ミレニアム・マンボ』の同一ショットのイメージが浮かんでくる(どちらも俳優の肌への光の当て方が芸術的だ!)。 間違いなくやさしい人柄だが、カナのことを本当に理解しているとは言いがたい二人のボーイフレンドの存在も絶妙だ。保護者であるかのようにカナと接するホンダは、彼女の怒りを何ひとつ理解できていない。ホンダより自由奔放でカナと気が合うように見えるハヤシは、彼女の怒りのトリガーを引いてしまったと察知する瞬間がやけに生々しく、滑稽でもある。どちらにも痛々しく辛辣なメスが入れられている。 「ごめんなさい」という言葉がいったい何に対して謝っているのか、よく分からなくなる感じといったらよいだろうか。事を穏便に済ませるための「ごめんなさい」。相手を怒らせたことに対する「ごめんなさい」。言葉がほとんど思考停止の麻酔薬となる。同じように「わかる」という本来ならありがたいはずの言葉が、何に対する「わかる」なのか分からなくなっていく。「ごめんなさい」という麻酔薬。「わかる」という麻酔薬。カナはこの麻酔薬に抵抗するために暴れているのかもしれない。分かってたまるか。この麻酔薬には大きな不安がある。いったい何を信じればよいのか。 お腹がへる。取っ組み合いのケンカをする。再びお腹がへる。『ナミビアの砂漠』はこの循環から脱出する映画ではない。ここに留まり、ここでサヴァイヴするための映画だ。カナ=河合優実はごつごつとした心の塊をオーディエンスに投げかける。私たちが迂闊に呑み込めないほどの固い固い心の塊。それは毒薬かもしれないし、爆弾かもしれない。しかしこの喉のつかえこそが、本作を2020年代のエポックメイキングな作品として成立させている。「今後の目標は生存です」。分かってたまるか。私たちはカナと共にこの世界をサヴァイヴする。 文:宮代大嗣(maplecat-eve) 映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。 『ナミビアの砂漠』 TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー中 配給:ハピネットファントム・スタジオ ©2024『ナミビアの砂漠』製作委員会
宮代大嗣(maplecat-eve)