遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 天草・崎津漁港に立つ「海の天主堂」&日本の「教会建築の父」鉄川与助物語【前編】
絵踏みの舞台に建てられた教会
羊角(ようかく)湾のほとりに立つ現在の﨑津教会は、﨑津諏訪神社隣の木造教会の老朽化に伴い、1934年に建てられた。 建設地は、当時同教会の司祭を務めていたフランス人宣教師、オーグスチン・ハルブ神父の「キリシタン弾圧を象徴する場所に」との強い願いで、禁教期に絵踏みが行われていた庄屋役宅跡が選ばれた。踏み絵を置いた場所に祭壇が設置されたという言い伝えがある。 尖塔の上に十字架を掲げたゴシック様式の正面外観には重厚感が漂う。一方、堂内(撮影禁止)は国内でも数少ない畳敷きで、日本と西洋の文化の融合を象徴している。設計・施工は、本連載第4回で訪れた野崎島の旧野首教会を手掛けた、上五島出身の大工棟梁・鉄川与助である。 﨑津教会には畳敷きのほかにも珍しい特徴がある。 建物の側面に回り込むと、鉄筋コンクリート造りは入り口の尖塔・拝廊部分だけで、祭壇など奥三間は木造であることが分かる。 当初の設計はすべて鉄筋コンクリート造り。ハルブ神父の私財、信者らの寄付金と労働奉仕で建設は進められたが、正面部分を建てたところで資金がひっ迫する。はっきりとした理由は分からない。土地所有者が仏教徒で、キリスト教徒に対して売り値を釣り上げたという説もある。 ともかく、鉄川与助はこの危機を「コンクリートと木造の混在」という策で乗り切り、ユニークな外観の教会が誕生する。
大工棟梁が建てた天主堂
﨑津教会から歩いて10分ほどの岸壁に穴場のフォトスポットがあると聞き、昭和の面影を色濃く残す街道を散策しながら、その場所に向かった。 海から上がるとすぐ先に山が迫る集落西地区は、わずかな平地に家屋が密集している。このため数軒ごとに「トウヤ」と呼ばれる、海に通ずる幅90センチほどの小路が通り、住民たちの交流の場になっている。 トウヤの先には、シュロや竹を材料に水中に柱を立て、船の停泊や漁具の手入れ、魚干しなどを行う「カケ」と呼ばれる“海上テラス”が設けられている。狭い土地の中で効率良く家業を営む工夫である。 堤防から眺めた﨑津教会は、昔ながらの漁村景観にしっくりなじんでいた。 この光景を、﨑津集落から路線バスで13分ほどにある大江教会と比べてみると、ある違いに気づく。﨑津教会が竣工する前年に完成した大江教会も、鈴川与助の設計・施工である。 風の強い丘の上に悠然と立つ大江教会は、正面の塔にドーム屋根を載せることで周囲の緑と調和させ、対照的に﨑津教会は、尖塔屋根にして漁村の日本家屋の中に溶け込ませている。 それにしても、五島列島の小村に生まれ、尋常小学校を卒業するとすぐに大工の道に進んだ鉄川与助は、いったいどうやって独学で﨑津教会や旧野首教会のような美しい教会を建てることができたのだろう──。私は彼の生涯をたどるべく、出生地である中通(なかどおり)島に向かうことにした。(後編に続く)
【Profile】
天野 久樹(ニッポンドットコム) AMANO Hisaki ライター(ルポルタージュ、スポーツ、紀行など)、翻訳家。ニッポンドットコム編集部チーフエディター。1961年秋田市生まれ。早稲田大学政治経済学部、イタリア国立ペルージャ外国人大学イタリア語・イタリア文化プロモーション学科卒業。毎日新聞で約20年間、スポーツ記者(大相撲・アマ野球・モータースポーツ担当)などを務める。著書に『浜松オートバイ物語』(郷土出版社/1993年)、訳書に『アイルトン・セナ 確信犯』(三栄書房/2015年)。