遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 天草・崎津漁港に立つ「海の天主堂」&日本の「教会建築の父」鉄川与助物語【前編】
神社仏閣で唱えた「あんめんりゆす」
﨑津集落が世界遺産の構成資産に選ばれる決め手となったのは、「日本の伝統宗教(仏教、神道)とキリスト教の共存」だった。その意味で大きな役割を果たしたのが、﨑津教会を見下ろす高台に立つ﨑津諏訪神社だ。 禁教政策が始まって190年近く経った江戸時代後期の1805年、ついに﨑津と近隣の村で潜伏キリシタンが摘発された。「天草崩れ」と呼ばれる事件だ。「崩れ」とは、大勢のキリシタンの存在が一つの地方で発覚することを意味し、﨑津とその周辺では人口の約半分にあたる5000人余りが検挙された。 事の発端は、幕府が牛・馬を殺すことを禁じている中、クリスマスに牛肉を仏壇に供えている者がいることが、内偵者により長崎奉行所に報告されたことだった。 結局、取り調べを担当した役人は、彼らが潜伏キリシタンであることを内心知りながら、幕府に対しては、キリシタンではなく「異宗」を信仰する「心得(こころえ)違いの者」であると伝え、絵踏みの順守などを条件に無罪放免とした。こうして彼らの潜伏は明治維新まで続くことになる。 なぜ、役人たちは事を穏便に済ませようとしたのか。それは潜伏キリシタンたちが、自らの信仰を守り続ける一方で、﨑津諏訪神社にも足繁く通い、仏教や神道との共生に心を配っていたことを役人たちも分かっていたからだ。記録によると、寺院や神社に参拝する際、彼らは「あんめんりゆす(アーメン、デウス)」と唱えていたという。 神社との共生を物語るエピソードはまだある。明治時代に入って禁教政策が終わり、晴れてカトリックとなった際、彼らは自分たちの教会を﨑津諏訪神社の鳥居の隣に建てたのだ。 﨑津諏訪神社の参道を上り切った山頂に絶景ポイントがある、と観光案内所の担当者が教えてくれた。500段以上の石段を上ると聞いて一瞬ひるんだが、「その甲斐はありますから」と励まされた。 休み休み20分かけてたどり着いた展望台からの景色は、確かに、疲れを吹き飛ばすものだった。