「国鉄改革の立役者」葛西が政界を牛耳る「国士」にまでなれたワケ…停滞期にあった東海道新幹線を大躍進させた驚異の手腕とは
新幹線のためにも必要不可欠
周知のように、東京五輪の開催に合わせて1964年に開業した東海道新幹線は国鉄時代の突貫工事の結果、赤字を生む要因になった反面、稼ぎ頭でもあった。時速200キロを超える高速鉄道は世界に誇る日本の鉄道技術の結晶と評され、数少ない黒字路線として旧国鉄の経営を支えてきたといえる。黒字路線は東海道新幹線を除けば、東京都の山手線と群馬と東京を結ぶ高崎線だけになってしまった時期もあるという。 しかし、そんなドル箱路線もときとともに色あせていく。国鉄末期になると、東海道新幹線でいくら稼いでも、利益が全国の赤字路線の穴埋めにまわされる事態に陥った。そのせいで国鉄時代は、新幹線の利益を新たな投資にまわす余裕などなくなってしまう。やがて東海道新幹線は老朽化した。国鉄改革は新幹線のためにも必要だったのである。 国鉄が分割民営化された87年4月当時、日本はバブル景気の真っただ中にあった。ビジネス需要に加え、レジャー目的の乗客も少なくない東海道新幹線はただでさえパンク寸前だった。そこへ空前の好景気が訪れ、ますます乗客が増えた。輸送システムそのものが限界に達していたのである。 乗客の輸送力は1時間に10本走る新幹線のうち「ひかり」が6本、「こだま」が4本という「ロクヨン」ダイヤで構成されていた。だが、明らかにそれでは足りない。おまけに線路の枕木やトンネルの外壁に使用されたコンクリートなど構造物の経年劣化が進んでいた。なにより最大の問題が、0系と呼ばれる新幹線車両の陳腐化だ。新幹線車両は形式番号で呼ばれ、近年、0系から100系、300系、500系、700系と進化してきたが、国鉄時代は64年の開業以来、20年以上も技術開発に着手できず、0系のままだった。したがって速度がまったく上がらなかった。 葛西はJR東海の発足にあたり、取締役総合企画本部長に就任した。総合企画本部はまさに新幹線事業を担う中核部署である。葛西は「伸びきったゴム」と揶揄された東海道新幹線の新たな技術開発に迫られた。換言すれば、東海道新幹線は企業のストロングポイントだ。JR東海の生命線である東海道新幹線に磨きをかける。葛西が経営者として長所を最大限に伸ばそうとするのは、当然だったのかもしれない。そうして葛西は日本の大動脈である東京~大阪の東海道新幹線をブラッシュアップし、経営者として認められていく。 『躍進する航空業界に対抗するための「3つの方針」…JRが当時最速級の時速270kmを誇る「のぞみ」を打ち出す陰にあった「衝撃」の戦略』へ続く
森 功(ジャーナリスト)