事故死したケンペスへ捧げた。J1復帰セレッソ大阪の柿谷が涙した理由
戦列に戻って来たのは11月6日の愛媛FC戦。残り9分でピッチに立ち、リーグ戦の最後の2試合では先発。まさに強行軍で試合に必要な体力と勘を取り戻し、京都とのJ1昇格プレーオフ準決勝では約5ヶ月半ぶりとなるゴールも決めた。その存在感を、大熊清監督はこう表現する。 「ボールを前へ運ぶだけでなく、(柿谷)曜一朗が復帰したことで、前線で時間を作れるようになったことが守備の安定にもつながった」 もうひとつは、かつてのチームメイトを突然失ったことへの悲しみがある。11月28日に南米コロンビアで発生した旅客機の墜落事故。命を奪われた71人もの犠牲者のなかに、ブラジルのプロクラブ、シャペコエンセが乗り合わせていたことがサッカー界にも衝撃を与えた。 ヴィッセル神戸を指揮したこともあるカイオ・ジュニオール監督をはじめ、かつてJリーグの舞台でプレーした現役選手も4人、天国へと旅立った。その一人が、2012シーズンのセレッソでプレーし、7ゴールをあげたFWケンペスだった。 「僕がいま、サッカー選手として試合をできているのもケンペスのおかげ…というのはもしかしたら言いすぎかもしれんけど、アイツと一緒にフォワードでプレーするようになって、点を取れるようになったから」 4歳からセレッソの下部組織で育った柿谷は、16歳でプロ契約を結んで脚光を浴びた。もっとも、その後は練習への遅刻などを繰り返し、J2の徳島ヴォルティスへ期限付き移籍した時期もあった。 実際は精神面を一から鍛え直すための武者修行。そして、約2年半に及んだJ2でのプレーを経て、復帰したのが2012シーズン。途中出場から徐々に首脳陣の信頼を勝ち取り、レギュラーとなる過程でともに切磋琢磨したのがケンペスだった。 迎えた決勝。キックオフ前に両チームの選手と審判団が、シャペコエンセへ黙とうを捧げた。ウインドブレーカーを脱いだセレッソの11人は、全員が胸の部分に「9」が大きく記された特別なユニフォームを着ていた。ケンペスが在籍時に背負った番号であり、発案したのは柿谷だった。 「アイツとはそのころ(2012シーズン)の楽しかった思い出がいっぱいありますし、今日も(天国から)見てくれていると思っていたので。恥ずかしいところは見せたくなかった」