『美しき仕事』美しき発明、モノローグとしてのダンス
シャドウ・ダンス
「クレールと(撮影監督の)アニエスは、砂漠で小さな茂みが揺れ動くのを見て、振付師のベルナルド・モンテにそのことを伝えました。そこで彼は、あの茂みの動きの影を作るような振り付けを部隊にしたのです」(ネリー・ケティエ:編集)*1 ジブチの地で行われる外国人部隊による訓練風景はダンスであり、儀式であり、奇妙な武術のようでもある。接近に次ぐ接近として俳優の身振りや肌の色そのものを捉えていくクレール・ドゥニによるダンスの追及は、闘鶏を描いたバディ・ムービーの傑作『死んだってへっちゃらさ』(90)を撮っているときに芽生えたものだという。たしかにこの作品の調教シーンにおける鶏の羽ばたきと俳優の関係にはダンスを見ているような感覚がある。興味深いのは、クレール・ドゥニの映画におけるダンスは、肉体の美しさや官能性を超え、肉体の曖昧さへと至っていくところだ。 クレール・ドゥニの映画では、俳優の動きがクローズアップになればなるほど、その輪郭が失われていくような感覚がある。『美しき仕事』の振付を担当するベルナルド・モンテに茂みの揺れを模す動きを依頼した理由はここにあるのだろう。訓練=ダンスする肉体は、やがて影となり、ジブチの風景の中に消えていく。それはジブチの地に葬り去られた身体のようでもある。ある共同体の慣習によって浸食された幽霊のような身体。シャドウ・ダンス。実体を失った影としての身体がジブチの砂丘に揺らめいている。 常連俳優のアレックス・デスカスが語るように、クレール・ドゥニの映画には俳優の肌に直接カメラで触れるような不思議な感覚がある。触覚的な欲望。しかしクレール・ドゥニの映画において欲望は罰せられる。『美しき仕事』のガルーは、欲望による“侵犯”によって罰せられる。何かに近づきたいという感情が高まれば高まるほど、欲望は鋭利な刃物となって自分の喉元に突き付けられる。上官のフォレスティエ(ミシェル・シュボール)に愛されたいガルーは、サンタンの若さ、輝きに嫉妬する。ガルーは自分の居場所がなくなり始めていることに恐怖を感じ、ついに一線を越えてしまう。そこには“侵犯”の政治性がある。この作品はかつてフランスの植民地だったジブチで撮られている。