ロッテ福浦2000本秘話。イチローの言葉と現役続行宣言の縁
もう知られた話だが、強豪、習志野高時代は、投手で4番。甲子園出場はできなかったが、1993年のドラフト7位で投手として指名された。逆指名が導入された年で、福浦がその年のドラフトの最後の一人だったため、支配下選手登録の70人目の選手の意味で背番号は「70」だった。 しかし、春季キャンプでプロと高校の練習量の違いに耐え切れずに肩と肘がパンク。入団早々、投げられなくなった。確か5月か6月。野手の休憩時間にグラウンドが空いたため、2軍の故・山本功児打撃コーチに、同期の小野晋吾と共に「おまえらバッティングしてみろ!」とゲージ内へ引き入れられた。すると「バッティングが嫌いじゃなかったし、高校時代では1年から4番だった」というセンスの一端を垣間見せた。 糸を引くような打球を連発すると、以降、山本氏は何度も「バッターに転向しろ!」と、福浦に野手転向を打診するようになる。しかし、その度に「いやあ、いやあ」と笑いで誤魔化しながらやんわりと拒否していた。 「うまく流していました(笑)。まだ試合で投げていなかったのでピッチャーへのこだわりがあったんですよ。当時は左ピッチャーが貴重だったので、いけるんじゃないかと(笑)ルーキーの願望です」 だが、オールスター明けに醍醐猛夫2軍監督に呼ばれ、「野手をやったらどうだ!」と野手転向を正式打診された。もう誤魔化せなかった。「わかりました」と福浦は受け入れる。 「納得していなかったんです。正直、嫌でした。でも“明日から俺はもう野手なんだ。やっていくしかない!”と」 同期に別府羽室台高からドラフト3位の大塚明(現、外野守備走塁コーチ)、2位の拓殖大学紅陵高の立川隆史という2人の高卒の野手がいたことが支えになった。 「僕一人だけだと辛かったかもしれません」 1軍に昇格するまでに4年かかった。 「苦労したこと?全部です(笑)。打つことだけでなく、守ることも、走ることも、何もやっていなかったのですから。一塁の守備も、毎日、大塚とノックを受けていました。やるより、やらされる方が多かったですね」 手はずるむけになった。福浦曰く「汗が原因で豆はできる。手に豆ができるのはいいバッターではない」。いいバッターになるには時間がかかったということだろう。 五里霧中の打者転向。最初は理想とする他打者の物真似から入った。 「最初の頃は、物真似から入って、がっつりと(形を)作ったんです」 バットは清原和博氏と同じものを注文した。 「調子に乗っていたんですよね(笑)。無理なのにホームランバッターを目指していた。今は、ナイキさんと契約してもらっているが、当時は、まだアドバイザー契約もなかったので自分で自腹でバットを買っていました。そこで最初に買ったのが清原さんと同じタイプで(長さが)4半のバット。使いこなせるわけないですよね」