黒江透修さん、74年の引退直後、長嶋監督支えるコーチになるはずが…「なんで?という思いはあった」
巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第4回は、V9時代に遊撃のレギュラーを張り、鉄壁の内野陣を形成した黒江透修さん(85)の「喜怒哀楽」だ。巨人の緻密(ちみつ)なチームプレーを支え、勝負強い打撃も光った名脇役。指導者としても数々のチームを育て上げた“究極のナンバー2”が、巨人時代の記憶をたどった。(取材・構成=湯浅佳典、太田倫) 正直、心底怒ったことや腹が立ったことってあまり思い出せないものでね。 逆境はいろいろあったよ。ミスターと一緒に現役を引退した74年。ミスターの監督就任とともに自分もコーチになるものだと思っていたけど、球団からは声がかからなかった。結果的にコーチ補佐として置いてもらったけど、ベンチにも入れない立場。なんで?という思いはあった。 僕は72年から74年まで巨人と、セ・リーグの選手会長を兼務していた。フロントに、チームのため、後輩のために待遇改善を要求したり、いろんなことを直言してきたせいもあるのかもしれない。グラウンド内のことと一緒で、細かいことはONではなく、僕がやらんといかん、と考えていたからね。78年に優勝を逃してコーチを解任された時も、残念ではあったけど、他で頑張ろう、堂々と巨人を出て行こうという気持ちが勝った。どこか達観していたところがあったな。 私生活では娘が大学生のころ、帰りが遅かったり、生活態度について叱ったことがあった。それも、自分にとってはひとつの人生勉強だった。コーチとして、娘と同じような年齢の選手と向き合った時に、今の若い子はこんな考え方をするんだ、頭ごなしじゃいかん、とね。 指導者として憎まれ役もいとわなかったし、厳しい言い方になることはもちろんあった。でも、それは腹が立って怒っているわけじゃない。勝つために、妥協するわけにはいかないからね。 ◆黒江 透修(くろえ・ゆきのぶ)1938年12月12日、鹿児島・姶良町(現姶良市)生まれ。85歳。鹿児島高から杵島炭鉱、日炭高松、立正佼成会を経て64年に巨人に入団。68年にはベストナインにも輝いた。74年に現役を引退した後は、巨人、中日、西武、ダイエーなどでコーチや2軍監督を歴任。現役時代の通算成績は1135試合に出場して3478打数923安打、57本塁打、371打点、打率2割6分5厘。右投右打。
報知新聞社