「僕の個性は、真に生きていること」100歳の影絵作家藤城清治が見つめる“自然”
影絵作家の藤城清治さんは、2025年4月17日に101歳を迎えます。長きにわたる創作活動の原点はどこにあるのでしょうか。影絵の作成にカミソリを使う理由、100歳を機に刊行された『藤城清治 傑作選 魔女の赤い帽子』、そして今後の創作活動についてもお話をうかがいました。 【画像】藤城清治さん。
カミソリを使うことで緊張感を持った線に
――影絵作品はどのように作るのですか? 藤城 影絵で使われるのはカッターだけど、僕はカミソリで切っているんだ。手が傷つく、というほどじゃないけど、切れて手の皮が硬くなるから、この方法はあんまり人におすすめはできないね。影絵を相当長くやっている人でも、こういう切り方をしているのは、僕しかいないんじゃないかと思う。 とはいえ、僕も最初の頃は、刃を折って使うようなカッターを使っていたんだけど。いつの間にかカミソリで切るようになったね。 カミソリは本当に細く切れるし、指先でなぞっている感じで進められる。下書きの通りにきれいに切るならカッターでいいけど、手でなぞっている感覚を大事にした方が、生きている感じが出るから。カミソリがいい。動物にしろ、草木にしろ、シャッと下絵の通りになぞるのではなく、その時の気持ちで切る。そういう感じ。気持ちの通り、手首の通りね。 影絵ではアクリルやカラーフィルムを使うんだけど、普通の糊だけでは剥がれてきちゃうからスプレー糊なんかも使う。そうすると手がべとべとになっちゃうんだ。
『ぶどう酒びんのふしぎな旅』がつないだ縁
――これまで制作してきた中で、一番印象的だった物語は何ですか? 藤城 『ぶどう酒びんのふしぎな旅』だね。初めて絵本を出すことになって、「君の一番好きな話は」と花森さんから聞かれたんだ。それでアンデルセンの童話『びんの首』を伝えた。絵本が出た時は、国鉄・山手線の中づり広告にしてくれて、これには周りもびっくりしていたね。 ――『ぶどう酒びんのふしぎな旅』は、最近、発売された『別冊 暮しの手帖 100歳おめでとう 影絵作家 藤城清治』に収録されていますね。 藤城 この絵本を出したら、ソニーの前身である「東京通信工業」という会社から電話があって、「宣伝に使いたい」と言われたんだ。僕だけの判断ではどうにもできないから花森さんに伝えたら「小さな会社と仕事をするな」と言われて、僕は断ったんだよ。 そうしたら、また電話がかかってきて、「どうしてもお願いしたい。一度会社を見てほしいから、車で迎えに行きます」と言われた。まあ見るくらいならいいかと思って、了承したんだ。それで連れて行かれたのが、小さな木造2階建ての工場。横の広場にルノーの小型車が営業車としてずらっと並んでいた。 当時、僕はルノーが車の中で一番好きだったんだ。そんな車を営業車にするなんて、この会社は普通じゃないなって思ったね。相当にセンスが良いと思ったから、やることにした。きっと花森さんもわからないはずはないと思ったから。それからしばらくして東京通信工業はソニーという会社名に変えたんだけど、そうしたら花森さんが「いい会社だな」と言い出したね。 ソニーの盛田昭夫さんは、僕の影絵よりデッサンを気に入って「世界一だ」と褒めてくれたよ。 ――100歳記念として刊行した『魔女の赤い帽子』ですが、どんなところにこだわられましたか? 藤城 表紙のデザインやタイトルのほかに、本誌連載時よりも影絵を大きく配置してほしいと伝えたね。 『暮しの手帖』の連載は初代編集長の花森安治さんが「ずっと自分で続けたい」と言っていたけど、1978年に亡くなったでしょ。僕が54歳で、「暮しの手帖を月刊にしよう」という話が出た頃だった。世界のいろんな文化を取り入れた絵を描いて、お母さんたちに紹介しようと考えていた矢先だったから。 結局、花森さんが亡くなった後は「思い切って、月刊へ」ということはできなくなって、隔月刊になったんだけど。花森さんが担当していたイラストカットを、僕が担当したりしてね。 ――花森さんが亡くなった後も藤城先生の『暮しの手帖』での連載は続き、通算41年に及ぶ長い連載となりましたね。 藤城 1979年からは大阪ロイヤルホテルで『暮しの手帖』に掲載した作品をまとめた影絵原画展を毎年開催するようになってね。そのうち東京でも展覧会を始めたり、僕が描いた作品で単行本を出したりもして。 でも初期のモノクロ作品は撮影が終わったら「フィルムに作品が残っているし、本に載ったからもういいや」って作った影絵をビリビリに破いていたんだよ。そうしたら、「駄目だよ、そんなことは」と花森さんに言われたものだけど。