「エルサレム」とはどんな場所か? 地理的、歴史的に振り返る
●第二次大戦後にエルサレムは東西分割
第二次世界大戦後、ユダヤ人とパレスチナ人の対立はイギリスの手にも負えなくなるほど激化。その結果、国連総会は1947年、両者の共存が困難と判断し、パレスチナをユダヤ人とパレスチナ人で分割することを決議。これにともない、エルサレムは国際管理地区と定められたのです。 ところが、この国際管理はほどなく崩れました。国家樹立の悲願が実現してこれを歓迎したユダヤ人と対照的に、イスラム諸国は国連決議を批判。1948年にイスラエルが建国を宣言するや軍事的に介入したのです(第一次中東戦争)。戦闘のなかエルサレムはイスラエルとイギリス委任統治領だった1946年に独立したトランス・ヨルダン王国(1950年に後のヨルダン・ハシミテ王国 と改称)によって東西から占領されました。 1949年のローザンヌ議定書では、イスラエルとヨルダンの占領地に沿って休戦ラインが確定されました。これに基づき、ヨルダンが「東エルサレム」を含むヨルダン川西岸を併合したのに対して、イスラエルは「西エルサレム」を首都と宣言し、政府機関の移転を開始したのです。 エルサレムの東西分裂にともない、西エルサレムに居住していたイスラム教徒や東エルサレムに居住していたユダヤ教徒、キリスト教徒はそれぞれ排除されました。エルサレムの東西分裂は宗派の純化を促し、結果的に相互不信をさらに深めたのです。
●イスラエルの実効支配が進む
エルサレムが再び「統一」される転機となったのは、1967年の第三次中東戦争でした。この戦争でイスラエル軍はヨルダン川西岸の全域を制圧。これにともない、東エルサレムは西エルサレムに事実上併合されたのです。 これに対する批判がイスラム諸国だけでなく米国を含む西側諸国から出るなか、イスラエルはエルサレムの実効支配を強化。エルサレム市域が拡大され、ユダヤ人居住区が確保された一方、周辺のパレスチナ人居住区は市域から排除されました。エルサレム人口に占めるユダヤ人の比率が高まるなか、1980年にイスラエル政府は「エルサレム基本法」を制定し、統一エルサレムを首都と宣言。大統領府や議会をはじめとする国家機関を設置し、各国に対して大使館をテルアビブから移転することを求め始めました。 統一エルサレムの実効支配を国際的に認めさせようとするイスラエルに対して、国連安保理はエルサレム基本法を無効とし、イスラエルの主権を認めないことを確認する決議を採択。それ以降も毎年のように国連総会でこれを確認する決議が採択され、イスラエルは孤立を深めていったのです。