「エルサレム」とはどんな場所か? 地理的、歴史的に振り返る
●4つの地区に分かれる旧市街
旧市街はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、アルメニア人の4つの区画に分かれています。エルサレムは旧約聖書の時代から破壊と増設が繰り返されてきましたが、旧市街の現在の基本的な構造は、1517年から1917年までこの地を支配したオスマン帝国の時代にアルメニア人居住区が確立されたことでほぼ完成しました。 コーカサス地方にルーツをもつアルメニア人は、その一部が紀元4世紀頃にエルサレムに移り住んだといわれます。ほとんどがキリスト教徒ですが、その多くはローマ・カトリック教会とも東方正教会とも異なるアルメニア教会の信者で、さらにユダヤ人ともパレスチナ人(アラブ人)とも言語的、文化的に異なります。 オスマン帝国はイスラムを強制するよりむしろ宗派や民族ごとに分けて支配し、異教徒には税を課す代わりに信仰を認めていました。旧市街に残る4区画は、オスマン帝国の支配哲学を象徴するものといえます。
●第一次大戦後にユダヤ人流入増える
ところが、この状況は第一次世界大戦(1914~1918年)でドイツ側に立って参戦したオスマン帝国が敗れたことで一変。オスマン帝国崩壊の混乱のなか強制移住させられたアルメニア人はパレスチナ全域で激減し、これと入れ違いにユダヤ人が人口を増やし始めたのです。 紀元1世紀にこの地を追われ、各地で迫害されたユダヤ人の間には、20世紀初頭 からパレスチナへの帰還運動(シオニズム)が広がっていました。この背景のもと、第一次世界大戦中の1917年、イギリス政府はユダヤ人財閥から軍資金を調達するため、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を創設すること」を約束(バルフォア宣言)。 第一次世界大戦後、オスマン帝国の領土だったパレスチナがイギリスの支配下に入ると、戦争中のこの約束に沿ってユダヤ人の流入が進んだのです。 ところが、イギリス政府はやはり第一次世界大戦中の1915年、ドイツの同盟国オスマン帝国に支配されていたアラブ人に、オスマン帝国への反乱と引き換えに「戦後オスマン帝国の領土にアラブ人国家を建設すること」を約束していました(フセイン・マクマホン協定)。ところが、当初イギリスはこの約束を反故にしようとし、さらにパレスチナにユダヤ人が大量に流入したことでアラブ人の不満が爆発。イギリスはこれを抑えるため、1921年にイラク王国を、1923年にトランス・ヨルダン首長国を建国しましたが、これらは委任統治領として実質的にイギリスの支配下に置かれ続けたため、アラブ人の不満が収まることはありませんでした。 この時期にパレスチナに移住したユダヤ人の多くは、エルサレム周辺に集まりました。オスマン帝国の統計によると、1905年のエルサレム人口のうちユダヤ教徒は1万3300人、イスラム教徒は1万1000人でした。ところが、イギリスの統計によると、1931年のユダヤ教徒は5万1000人、イスラム教徒は1万9900人。パレスチナ全体でみればユダヤ人の人口は少なく、その後の1947年段階でも全人口の32パーセントにとどまりましたが、それでもこの人口構成の急激な変化は両者の対立を深刻化させたのです。