“オールドメディア”が信頼を取り戻すために――名張毒ぶどう酒事件に取り組み続けてきた阿武野Pが語る「背骨」の必要性
休日に自費で取材を始めたスタジオカメラマン
東海テレビで名張毒ぶどう酒事件の裁判に疑問を持ち、最初に取材を始めたのは、スタジオカメラマンだった門脇康郎氏。着手したのは、事件発生から17年が経った1978年のことだった。 阿武野氏いわく「当時、司法とメディアの関係は、神聖な判決に疑義を申し立てるような報道がはばかれるという雰囲気だったのではないか」という中で、報道部の所属でもない門脇氏は、“どんな部署にいようとテレビ局員は皆、ジャーナリストであるべき”という考えの持ち主で、休日に自費で取材を続けていたという。 その後、報道部が番組化を決めて組織的に関わることになり、門脇氏をディレクターに立て、87年6月29日に『証言~調査報道・名張毒ぶどう酒事件』というドキュメンタリーを放送。その後、再び組織は取材から遠のくが、門脇氏の活動は続いた。 そして、2005年に再審の開始決定が出る。この時、ドキュメンタリーの責任者になっていた阿武野氏が、門脇氏に「今度は途中で投げ出したりせず、最後までやります」と協力を求め、齊藤潤一氏(現・関西大学教授)が2代目ディレクターとなって、06年3月19日に『重い扉~名張毒ぶどう酒事件の45年~』を放送した。 以降、継続的に取材を続け、14年に鎌田氏が3代目のディレクターとなり、現在に至る。阿武野氏は「2005年から、齊藤潤一と鎌田麗香という2人のディレクターが視点を変えながら多角的に取材を展開したので、それらの成果を盛り込んだことで今回の作品の膨らみになっていると思います」と解説する。
■事件を追い続けることで足腰が強くなった 映画にも映し出されている当時の映像は、事件現場にカメラが入り、布団がかけられた犠牲者の姿などが衝撃的だ。「東海テレビが開局してまだ3年しか経っていないので、カメラマンは映画界の出身者でしっかりしていたが、記者は新聞記者の見よう見まねだったそうです。テレビの報道はこうあるべきというのがまだ曖昧な頃の映像なんです」という。 フィルムで撮影していたため、上書きされることなく残っていた当時の映像には、裁判官の現場検証や法廷の様子なども残されており、これが引き継がれてきたことは、「組織メディアの強みだと思います」と強調する阿武野氏。改めて、組織的に継続することの重要性を感じたという。 「この事件を追い続けることで、スタッフの足腰が強くなったと思います。ニュースは瞬発力が必要ですが、瞬発力を支えるのは取材経験です。奥西さんが獄中で亡くなった時に、私たちはとてもショックを受けました。当時、特番を作ったんですが、樹木希林さん(※映画『約束~名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯~』に出演)が“奥西さんの死は無駄ではなかった。長く生きたことによって、若い弁護士たちを育てた”とコメントをくれました。それと同じように私たちスタッフもこの事件に鍛えられたんだと思いました」 冒頭で、阿武野氏は名張毒ぶどう酒事件の仕事を「背骨」と表現していたが、「この事件を追いかけることで、裁判所の中にカメラを入れた『裁判長のお弁当』や、検察庁の内部を写し撮った『検事のふろしき』というこれまでに例のない“司法シリーズ”のドキュメンタリーが生まれていったんです。やはり、しっかりした“背骨”がないと派生していかないので、そういう意味で、私たちのドキュメンタリーの母として、名張毒ぶどう酒事件が支えてくれたという感じがします」と再確認。 「こういう形で作り続けていたことで、私のテレビマン人生も空虚なものにならなかった。名張毒ぶどう酒事件に関われたのは、幸せなことだったと思います」と感慨を述べた。 昨今、テレビを含むマスメディアが「オールドメディア」とくくられ、兵庫県知事選の結果などを受けて「オールドメディアがSNSに負けた」と語られる風潮がある。そんな状況を打破するためにも、「背骨」と意識できるような仕事に取り組むことが必要だと訴える。 「テレビ・新聞は、記者の足腰をもっともっと鍛えて、瞬発力と持続力の両方を持ち合わせるようにならないといけません。それには、教育システムを整え直すべきです。最近では“夜討ち朝駆け”にタクシーを使うなとか、なるべく出張するなという風潮があるようですが、取材以上に何か大事なものがありますか。波風をたててこその報道ですし、信頼できるメディアになるためには、手間暇かけて記者教育をやり直すしかないと思います」