中国の「清朝」は、じつは「秘密結社」にめちゃくちゃ厳しかった…その「意外な理由」
なんでも「秘密結社」
中国の外交姿勢は、この十数年でおおいに強硬化したと言われます。 この大国と日本はいったいどのように付き合っていけばいいのか。いま、中国という国についてさまざまな知識をたくわえるべきタイミングにきているのかもしれません。 【写真】天皇家につかえた女官…そのきらびやかな姿 中国という国の歴史を知るうえで便利なのが、作家の陳舜臣さんによる『中国の歴史』シリーズ。中国について、きわめて読みやすいかたちで歴史的な見取り図を与えてくれる書籍シリーズです。 たとえば、『中国の歴史(七)』では、清朝の統治の特徴が描かれます。興味深いのは、清朝が「結社」を厳しく禁じていたという点。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを一部編集しています)。 〈清朝政権が結社にたいして神経質であったのはとうぜんでしょう。支配層である満州族は少数で、国民の大多数は漢族でした。漢族が団結して決起すれば、満州族政権はかんたんに崩壊するはずです。そのため、結社をきびしく禁じました。 清代にはさまざまな秘密結社がうまれています。けっして反体制ではない、おだやかな結社でも、政府が禁じているのですから、秘密結社ということになるのです。結社はいけないというのですが、結社をつくらなければやれない職業もあります。〉 〈その一例が水夫です。隋唐以来、南方の食糧や物資を北方に運び、南北のバランスをとるのが中国の地政学的な宿命でした。南北を結ぶ運河は中国の大動脈です。この長い運河を往来する船の水夫は、互助組織をつくって連絡しないと、安心して仕事ができません。 マカートニーなどイギリスの使節団は、写真のない時代ですが、そのかわりに精密な銅版画をのこしています。それをみますと当時の運河のはばは、そんなにひろくありません。陸上からも攻撃されやすいのです。金目のものを積んで運ぶ船は、たえず略奪団にねらわれていると覚悟しなければなりませんでした。 乾隆年間の中期以後――十八世紀末になると、清も「盛世」をすぎて、国勢も傾きました。人口の増加も人びとの生活を圧迫する一因だったでしょう。農村はそれほど多くの人口を養うことはできません。乾隆期はその一世紀前にくらべて人口が倍増したといわれています。具体的にいえば、二億から四億になったのです。そして、その期間に農地面積は僅か十数パーセントしか増えていません。農業技術がほとんど改良されなかった時代ですから、単純計算によれば一人あたりの収入は半減したことになります。 生活が苦しくなれば、流民が増え、彼らは盗み、脅喝、かっぱらい、人さらいなど、非合法な手段で生きようとします。政府側からみればこれは「匪」ですから、徹底的に弾圧し、厳罰で臨もうとするのはとうぜんです。匪賊のほうでも、むざむざとそうはさせません。命がかかっていますから、けんめいです。〉 〈統率力のある人物があらわれて彼らをまとめると、かなり強い集団がつくられます。運河の船までが、彼らの略奪の対象となるようになりました。船のほうでも、それを防ぐ方法を講じたのはいうまでもありません。沿岸の有力者と結んだり、用心棒を雇ったりします。用心棒は匪賊とおなじ層の出身であったはずです。 治安がみだれると、人びとは自衛のために、できるだけ団結しようとします。とりわけその必要を強くかんじたのは、船の水夫、運搬夫、行商人、あるいは寺廟の縁日を渡り歩く露天商、いわゆるテキヤなど、よその土地へ出かけて仕事をする人たちでした。けれども、彼らが自衛の組織をつくっても、それは合法的とはいえません。政府は原則として、結社を禁じていたからです。〉 中国の政権が、どのような工夫をしてあれだけの国土を支配してきたのか、その一端が垣間見える一節です。
古豆(ライター)