幾度もの苦難を乗り越えたちいさな映画館「これからも素晴らしい映画が、私を待っているはずだから!」
福岡県北九州市、小倉駅から歩いて十分ほど小倉市民の台所と呼ばれる、旦過市場のなかに、座席が134席の、ちいさな映画館「小倉昭和館」のお話――
それぞれの朝はそれぞれの物語を連れてやってきます。 8月20日が創業記念日で、今年で85年目に入りました。昭和14年、娯楽のない時代に「まちの人びとの喜ぶ顔を見たい」と、初代創業者・樋口勇さんが、映画館兼芝居小屋として興しました。 当時の「昭和館」は、座席が600席もあり、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、阪東妻三郎などの大スタアの姿に人々は熱狂したそうです。 2代目・樋口昭正さんは、まだ子どもの頃、高峰三枝子さんが小倉駅から人力車に乗ってやって来た、という思い出が忘れられません。 昭和30年代、北九州地区だけで百館以上の映画館がありました。かつて「昭和館」には、3つの姉妹館があって、一日一万人を超えるお客さんが押し寄せ、その売上金が金庫に収まらず、一斗缶に詰め込んで風呂場に保管した……、そんなエピソードも残っています。
現在、3代目の館主、樋口智巳さんは、映画館の娘として育ち、幼稚園の頃から、大スタアの石原裕次郎さんや加山雄三さんに会いたくて、映写室にも通っていたそうです。 高校を卒業後、東京の短大に進学し、よく観に行ったのが岩波ホールで、「昭和館を小倉の岩波ホールにしたい」という夢を持っていました。 2011年、父・昭正さんが、大病を患ったことで、智巳さんが小倉に帰って来ます。ところが、かつて繁盛していた昭和館は、見る影もなく、観客が十人も入らない日もあって、莫大な赤字を抱え、経営状態は破綻寸前……。それを知った智巳さんは、がく然とします。 今までと同じことをしていたら、赤字が膨らむばかり……。
映画が始まる前、自ら「売り子」となってコーヒーやお菓子を売りました。さらに、映画上映だけでなく、様々なイベントを企画しました。時にはイベントが大当たりし、床が抜けそうなほど満席になり、「映画館が沸く瞬間」を味わいました。智巳さんは言います。 「映画館は儲かる商売ではありませんが、映画を観て、泣いたり、笑ったり、驚いたり、楽しんだり、そんな『幸せな場所』を守り続けたいんです」 「小倉昭和館」、3代目館主の樋口智巳さんが、最初に仕掛けたのが高倉健さんの特集上映でした。2011年、映画『あなたへ』のロケが、北九州の門司港で行われたとき、高倉健さんに挨拶をする機会がありました。すると健さんから「自分の映画を上映していただき、ありがとうございました」と握手! (わぁ、昭和館のことを、健さんは、知ってくださっていた) 大感激した智巳さんは、お礼に手紙を出します。「昭和館を継続させるかどうか、迷っています」と正直な気持を書きました。 すると健さんから、手紙が速達で届きました。恐る恐る封を開けると、そこには、健さんから映画館経営を励ます言葉が綴られていました。宝物となった「健さんからの手紙」は、額に入れて映画館に飾りました。 2014年に高倉健さんは亡くなりますが、健さんの言葉を胸に、様々なイベントを企画すると、お客さんが増えていき、2019年に、赤字を脱しました。しかし、2020年にコロナが直撃して、イベントが来ず、40日も休んだことは、戦時中にもなかったそうです。 そのコロナもどうにか乗り切った矢先、大変な試練が待っていました。 2022年8月10日の夜、旦過市場で大規模な火災が発生し、昭和館は全焼してしまいます。宝物の健さんの手紙も跡形もなく燃えてしまいました。この日から、智巳さんの心は、休館か、閉館か、揺れ動きます。 残暑の中、智巳さんは瓦礫の跡地に、毎日通いました。ただ、茫然と立ち尽くす日々。そんな智巳さんに、まちの人たちが、励ましの言葉をかけてくれました。中には、「突然“居場所”がなくなって、私はどこへ行けばいいの……」と泣き出す人もいました。 (居場所? そうだ、昭和館は、私にとっても居場所だったんだ) 智巳さんの心が動き始めたのは、火災から3ヶ月後……。 11月10日、高倉健さんの命日に、お墓参りをしました。智巳さんの背中を押してくれたのは、健さんの手紙にあったこの言葉でした。 「夢を見ているだけではどうにもならない現実問題。どうぞ、日々生かされている感謝を忘れずに、自分に嘘のない充実した時間を過ごされて下さい。ご検討を祈念しております」 健さんのこの言葉は、いまの私に投げかけてくれているんだ! そう思った智巳さんは、道は厳しいけれど、前に進もう! と、昭和館の再建を決意します。