なぜ日本統治時代の台湾経済なのか?―平井 健介『日本統治下の台湾―開発・植民地主義・主体性―』
◆なぜ日本統治時代の台湾経済なのか? 本書は、「日本植民地の経済成長は「日本のおかげ」であったのか」を問題関心として研究してきた私が、日本統治時代の台湾経済を概説した通史です。 日本統治時代の台湾を概説する書籍は、これまでに何冊も刊行されていますが、それらは主に政治の視点から叙述されていました。しかし、植民地統治の最大の目的は、その資源を開発し利用することにありますから、経済の視点からも叙述される必要があります。1895~1945年の51年間、総督府はどのような動機から台湾を開発し、それは台湾社会にどのような影響をもたらしたのでしょうか。台湾の人びとは開発にどのように関わったのでしょうか。台湾の開発は日本以外の地域、特にアジアの経済とどのような関係にあったのでしょうか。本書はこうした問いに答えるために書かれた、経済面から叙述したものとしては初の概説書です。 ◇ 学説を「刷込み」する 「刷込み(imprinting)」という言葉があります。生後間もない動物の子が、特定期間内に目にした動物や物体を固定的に認識し、以後それを見ると機械的に反応することを指します。これは鳥類で最も顕著とされていますが、ヒトも同様です。私は勤務先の大学で経済史を教えています。高校の日本史や世界史で教わる内容の中には、経済史学においてはすでに修正されているものがありますが、授業でそれを何度強調しても、高校で学んだ内容を繰り返す学生が後を絶ちません。一度「刷込み」されたものを変えるのは難しいようです。 ただ、以上のようなケースはまだましです。「刷込み」されたものは学術研究の成果に基づいており、日進月歩の研究の結果として修正されたに過ぎないからです。他方、日本植民地研究は厄介な問題を抱えています。日本史や世界史では日本植民地についてほとんど記載がありません。したがって、ここで「刷込み」されるわけではありません。学生たちが何から「刷込み」されるかというと、史実の誤認や切り取りに基づく解釈、すなわち「俗説」です。 これまでの教員生活のなかで、俗説に「刷込み」された学生を多く見てきました。せっかく植民地について学んでみようと思ってくれたのにと、自分の力不足を何度も痛感しました。特に台湾については、現在の台湾が「親日」とされていることや、日本統治時代のみを対象とした概説書が少ないため、俗説が受け入れられやすい環境にあります。日本統治時代の台湾について学んでみようと思った人びとが、「俗説」ではなく「学説」に「刷込み」されるような環境を作らなければならない、そういう思いで本書を作りました。 ◇ 台湾理解を深めるために 最近読んだ青波杏氏の『日月潭の朱い花』(集英社、2024年)の中に、印象に残る場面がありました。現代の台湾で働く主人公サチコが、台湾人の友人から「日本人はアジアの歴史を知らない」と笑われた時に、自身の台湾史への無知に気づいて、以下のように恥じます。 “わたしたちは悲しいくらい歴史を知らない。それなのに根拠のない優越感という負の遺産だけ引き継いでいる。……わたしは、どれだけのことを知らないできてしまったんだろう――。この土地に暮らすひとたちが、歴史を思い返すときに避けようのない、葛藤や混乱、その複雑さをなにも知らないでただ優しさに浸りきって生活していた。” 台湾史研究者は少なからず、「現在の台湾は「親日」なのに、なぜ日本統治時代のことをほじくり返すのか」という質問を何度も受けてきました。しかし、台湾が「親日」であることに仮託して、日本の台湾統治の実態を知ろうとせず(「知らず」ではなく)、あるいは史実を自分たちに都合良く解釈することが、台湾理解を深めるとは私には到底思えません。 本書を通じて、日本統治時代の台湾に関する玉石混交の情報を批判的に検討する視点を養っていただければ幸いです。 [書き手]平井健介(甲南大学経済学部教授) [初出媒体]刊行記念フェア図書リスト(2024年8月) [書籍情報]『日本統治下の台湾―開発・植民地主義・主体性―』 著者:平井 健介 / 出版社:名古屋大学出版会 / 発売日:2024年06月25日 / ISBN:481581158X
名古屋大学出版会