ジーコが鹿島アントラーズに与えた影響は絶大…クラブ全体に染みつかせた「スピリット」の深層
鹿島アントラーズの土台を築き上げた“神様”
Jリーグで最もタイトルを手にしているクラブは、鹿島アントラーズである。 J1、天皇杯、YBCルヴァンカップの国内3大タイトルに、ACLのアジア制覇を加えると計20冠と突出している。今シーズンでの6年連続無冠が決まっているとはいえ、30年の歴史のなかで2ケタ順位はわずかに1度だけで常に上位に顔を出してくるクラブであり、日本を代表するクラブという立ち位置に変わりはない。 【写真】重病を公表したサッカー選手・細貝萌の勇気 土台を築き上げたのは言うまでもなく“神様”ジーコである。ブラジル代表のスーパースターは現役を引退していたが、Jリーグ開幕前の1991年に復帰して鹿島の前身である住友金属に入団。JSL(日本サッカーリーグ)2部の弱小チームに対してプロとは何かを植えつけ、心身ともに鍛え上げた。 開幕イヤーの1993年にファーストステージを制すなど変貌を遂げることになる。そのジーコが1994年夏、41歳で現役生活にピリオドを打ち、10月には「ジーコカーニバル」が10日間に渡って開催された。日本サッカー史において最も盛大な引退イベントだったと言っても過言ではない。 あれから30年、鹿島のクラブアドバイザーを務めるジーコは来日して11月9日、名古屋グランパス戦において「ジーコカーニバル2024」と題した引退30周年記念セレモニーに出席している。試合前、選手が入場してくるとゴール裏のサポーター席には、いつものように「SPRIT OF ZICO」の文字が刻まれたフラッグが登場する。ジーコはアントラーズともにあり、アントラーズはジーコとともにある。スタンドから見つめるジーコの姿が神々しく映る。
ジーコのチームへの接し方
ジーコスピリットとは何か――。 クラブハウスには、『「献身」「尊重」「誠実」=ESPIRITO』と記された額縁が目立つように飾られてある。 筆者は20年ほど前、スポーツ新聞記者時代にアントラーズの番記者を2年務めたが、ゲーム形式のトレーニングになると殺気立った雰囲気でバチバチにやり合うのが、一つの名物でもあった。バチバチであってもバラバラにはならない。試合になればチームとしてカッチカチに一つに固まるという伝統が染みついていた。 「グラウンドに一歩足を踏み入れたら試合に出るための競争になるが、試合に出るメンバーが決まったら、出られない選手は出る選手のためにサポートをしなければいけない。その繰り返しだ』というジーコの教えに沿ったものだった。 ジーコは選手、スタッフ、クラブにかかわるすべての人たちを「ファミリア」と呼び、大切にした。それがチームに対する「献身」「尊重」「誠実」を芽生えさせ、帰属意識が強くなればなるほど一体感と団結力、そして勝利に対する執着心が強くなっていくのは自然の理であった。 ジーコが来日して驚かされた一つが、チームとしての練習着がなかったこと。なかにはJSL1部の強豪チームのユニフォームを着用して練習する選手もいたとか。帰属意識とプロ意識、このチームにいるというプライドを持たせる第一歩としてジーコは同じ練習着を用意するように動いた。ただジーコという人は、無理を強いる人ではない。 チームの予算を頭に入れたうえで、無理難題を押しつけたわけではない。住金側もJリーグにふさわしいクラブになるべく、ジーコの言葉に耳を傾けた。スーパースターのジーコも練習着を自分で洗った。若手が年長者の練習着を洗っていると聞くと、選手たちに「自分のものを自分で管理するのは当たり前だ」と叱った。 住金時代には試合時、交代を告げられた選手が不満そうにピッチを出ていくと、ジーコは後でこう怒ったそうだ。 「お前が先発で出るとき、サブに控える選手は、頑張ってこいって背中を押してくれる。いくら交代が気に食わないと言っても、今度はお前がその選手に頑張ってきてくれよって握手することが大事じゃないのか」 若手もベテランも関係ない。プロとは何か、チームとは何か、勝つために必要なことは何か。その一つひとつを粘り強く説いた。 住金時代は主務を務め、長らく事業部門のトップでアントラーズを支えてきた鈴木秀樹取締役副社長の言葉が耳に残る。 「ジーコはお兄さんのエドゥーとフットサルをしていてもロッカールームでメチャメチャ言い合いになっていた。ファミリアだから本気でやれるんだと思ったよ」 クラブに対して「家族」という思いは無論、うわべではなかった。ファミリーだから愛をもって大事にする。だからこそ人一倍厳しくもする。それが「親」の教えのように伝わって、クラブの伝統となっていったのだ。