そもそも、米国は最初から「民主主義」の国だったのか?
日本を含む世界各地で「民主主義の危機」が叫ばれている。だがそもそも、民主主義とはいったい何なのかについては、さまざまな考え方がある。多数決がすべてなのか、少数派の意見を尊重するべきなのか、一般の民衆の政治参加も必要なのか──。 【動画】著者の宇野重規による講義「民主主義入門」 民主主義が何かを考えるためには、その成立の歴史を見ていかなければならない。政治学者の宇野重規は著書『民主主義とは何か』で、古代ギリシャからフランス、米国、そして近代日本まで幅広い歴史を概観し、多様で変わりゆく「民主主義の形」があることを示した。 ここでは、「民主主義の国」を国家のアイデンティティとしている米国において、その建国過程で民主主義がどのような役割を果たしたのかを見ていこう。米国は厳密には民主主義の国とはいえないのだろうか? ※本記事は『民主主義とは何か』(宇野重規)の抜粋です。
アメリカは「民主主義の国」か
1776年、英国の統治下にあった北米の13の植民地が独立を宣言します。後にアメリカ合衆国の第三代大統領となるトーマス・ジェファーソンを中心に独立宣言が起草され、7月4日に大陸会議で採択されました。とくに、「すべての人間は生まれながらにして平等である」と説き、「生命、自由、幸福の追求」を人間の不可侵の権利と謳った前文が有名です。 ジョン・ロックの思想的影響が強くみられるこの宣言は、日本国憲法を含め、世界の多くの国々の憲法に影響を与えました。さらに1787年には、フィラデルフィアの憲法制定会議でアメリカ合衆国憲法が採択され、翌年に批准されています。古きヨーロッパから独立した新しい国の憲法は、現在では世界最古の成文憲法となっています。 結果として、アメリカ合衆国憲法は持続性の高い「自由の体制」を打ち立て、アメリカ合衆国といえばその出発点から「民主主義の国」であるというのが、一般的なイメージでしょう。しばしば神話化されて語られるアメリカの建国ですが、はたしてそういい切れるのか、あらためて考える必要があります。 例えば1787年の合衆国憲法には、悪名高い「五分の三条項」がありました。憲法には奴隷制についての明示的な言及はありませんでしたが、「その他の人々」という表現が含まれていたのです。しかも下院議員の定数の算定にあたっては、黒人奴隷は一人の人間ではなく、五分の三人として数えられていました。この条項がようやく廃止されたのは、南北戦争後のことに過ぎません。 さらにアメリカ独立戦争も、民主主義のために戦われたとはいい難い部分があります。独立前、北米植民地は大西洋を越えて広がる大英帝国の重要な構成要素でした。植民地人の多くも、自らを英国人として理解していました。たしかに1773年のボストン茶会事件を契機に、北米植民地では独立運動が急進化しますが、運動を突き動かしたのは本国による不当な課税への反発でした。 自分たちは英国の自由な臣民であるにもかかわらず、その意見が本国の議会では十分に代表されていない。このことに植民地人は不満を高めたのです。結果として北米植民地は独立へと突き進み、新しい共和国としての道を進むことになりましたが、最初から独立を目指したわけではありませんでした。 さらに、合衆国初期の指導者たち、いわゆる「建国の父」の多くは、奴隷を所有する大地主でした。独立宣言を起草したジェファーソン自身、ヴァージニアの裕福な地主の家に生まれ、その農園では多くの奴隷たちが働いていました。また独立戦争後にはマサチューセッツの貧しい農民がシェイズの反乱を起こし、これに対する恐怖が、フィラデルフィアの憲法制定会議に集まった人々を駆り立てたといいます。そこには、貧しい民衆の急進的な要求によって、民主主義に抑制がきかなくなることへの危惧がありました。