そもそも、米国は最初から「民主主義」の国だったのか?
妥協の産物としての合衆国憲法
ある意味で、アメリカ合衆国憲法は妥協の産物です。フィラデルフィアの憲法制定会議で採択された際にも、独立13邦のうち9つの邦で批准されれば、この憲法は発効することになっていました。結果的には13すべての邦で批准されたのですが、はたしてこの憲法案がすべての邦で認められるのか、最後の最後まで予断を許さなかったのです。 なぜ、憲法案の批准がそれほど難航したのでしょうか。重要なのは、13の植民地のそれぞれが、固有の憲法をもつ独立した国家(State)であったことです。一例を挙げればマサチューセッツ州の正式名称は、現在でもCommonwealth of Massachusettsです。文字通りに訳せば、「マサチューセッツ共和国」でしょう。 その意味でいえば、独立当初のアメリカ合衆国(United States of America)とは、まさに独立国家の連合体でした。イメージとしては一つの国であるというより、現在の国際連合に近い存在であったといえるでしょう。独立後に作られた連合規約にしても、憲法というより国際条約としての側面が強かったのです。 結果として、中央政府である連合会議には、課税権も、通商規制権も、そして何より常備軍をもつ権利がありませんでした。このままでは、ヨーロッパ諸国との緊張が続くなか、アメリカは自らの独立を維持することができず、解体してしまうかもしれない。そのような危惧が連合の指導者の間に強まります。国家連合ではなく、連邦国家としてのアメリカ合衆国をあらためて打ち立てるという決意の下、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれたのです。 この会議で憲法案が採択された後も、それが各邦によって批准される保証はありませんでした。各邦にとって、連邦政府が強い権限をもてばもつほど自分たちの権限が小さくなります。警戒感が募るのは当然でした。憲法案では、連邦政府の権限は明確に条文に列挙されたものに限定され、それ以外は州の主権に留保されることになっていました。 また人口の多い州と少ない州の立場に配慮して、上院議員の定員は人口にかかわらず各州同数とされ、下院は人口に応じて配分されました。さらに、上院議員は州議会によって選出されることにしました(現在は直接選挙)。このような妥協や配慮にもかかわらず、新たな連邦政府への疑念は強かったのです。 なかでも、人口が多く有力な、ニューヨーク邦における反発は深刻なものでした。そこで同邦を代表して合衆国憲法草案の作成に加わったアレクサンダー・ハミルトン(初代財務長官)は、ジェームズ・マディソン(第4代大統領)やジョン・ジェイ(初代連邦最高裁長官)とともに匿名で新聞に論文を掲載し、世論の説得に努めました。この論文をまとめたのが有名な『ザ・フェデラリスト』(1788年)です。いわば、「建国の父」たち自身による、憲法案についての解説書でした。 ハミルトンのねらいはより強固な中央政府をもつ単一国家としての合衆国でしたが、あえて「フェデラリスト(連邦主義者)」という言葉を使っているあたりに、その配慮がうかがえるでしょう。そもそも大統領(President)という言葉にしても、フランス語の「司会する」に由来する言葉であり、新たな連邦大統領が国王に近い存在になるのではないかという疑念に対して、少しでもそのイメージをソフトにしようと努めています。 それにもかかわらず、合衆国憲法制定への道は最後まで険しいものでした。結果として、どうしても憲法案は妥協の多いものとなってしまいます。本節の冒頭で触れた「五分の三条項」にしても、背景に黒人奴隷への差別があったのはもちろんですが、奴隷の多い州と少ない州との間の妥協の結果として挿入されました。 また連邦政府が幅広いサービスを提供できなくなったことは、現在にまでその影を落としています。すべての国民が十分な医療を受けるための医療保険制度改革、いわゆるオバマケアが、なかなかうまく進まないのも、このことと無縁ではないでしょう。(続く) エリートによる統治か、民衆の意見も取り入れるのか──このバランスをとるなかで、米国の政治体制は成立した。しかし指導者たちにとっては、常に「民主主義」は警戒すべき対象であった。(第2回に続く)
Shigeki Uno