なぜデヴィッド・ボウイの死後にドイツ政府からのメッセージが届いたのか…ベルリンの壁を崩壊へ導いたロックスターの歌声
2016年に69歳で死去した、イギリスを代表する伝説のロックスター、デヴィッド・ボウイ。数々の名曲を生み出した彼だが、そのなかでも『ヒーローズ』は特別なものになっている。いったいなぜなのか……。 【画像】西ベルリンでボウイと暮らしていたパンク界のゴッドファーザー
ロックの大スターに届いた政府からのメッセージ
デヴィッド・ボウイの訃報が流れたのは、2016年1月10日のことだった。 ロックンロールの新たな可能性を切り拓いた偉大なスターの死に、多くのアーティストや関係者、ファンが追悼のコメントを発信した。 その中でも話題になったのが、ドイツ外務省からのメッセージだ。 グッド・バイ、デヴィッド・ボウイ。あなたは今、#ヒーローズ の中にいます。壁の崩壊に力を貸してくれて、ありがとう。 (ドイツ外務省Twitter公式アカウントより) 第二次大戦後、敗戦国となったドイツは西側を資本主義のアメリカ、イギリス、フランスに、東側を共産主義のソ連に占領され、西ドイツと東ドイツという2つの国に分かれることになる。 東ドイツ領内にあった首都ベルリンも東西で分断され、西ベルリンは東ドイツにある孤立した島のような状態になった。 西に比べて、自由が少なく監視も厳しい東ドイツでは、不満を抱く国民が後を絶たなかった。そんな彼らにとって、格好の亡命先となったのが西ベルリンだった。 すると、東ドイツは“西”への亡命を防ぐため、1961年に西ベルリンを囲む巨大な壁を建造した。 デヴィッド・ボウイが、そんなベルリンの地を初めて踏んだのは1969年のこと。このときは音楽番組への出演が目的だったが、空いた時間にベルリンの壁も見に行ったという。 その後も、ツアーなどで何度か足を運んでいたボウイは、1970年代後半にイギー・ポップとともに西ベルリンで暮らし始める。
ベルリンがボウイに与えた影響
イギリスやアメリカでは有名すぎて外を出歩くことすらままならなかったが、西ベルリンでは日用品を買いに出かけて騒がれるようなこともなく、ひさびさにリラックスした日々を送ることができた。 ボウイはアメリカに戻るまでの数年間、ベルリンで『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』という3枚のアルバムを制作する。ブライアン・イーノとともに作られたこれらの作品は「ベルリン三部作」と呼ばれている。 そして、この時代における代表曲の1つが『ヒーローズ』だ。 この歌はベルリンの壁沿いにある監視塔の下でデートを重ねる恋人たちを描いたものだが、そのモデルについては諸説ある。 レコーディングしているスタジオの窓から見えた、ベルリンの壁の前でデートをしている男女を見てインスピレーションを得た。 プロデューサーのトニー・ヴィスコンティが恋人と会っているのが窓から見えた。 画家のオットー・ミューラーの作品「庭壁の間で愛し合う二人」にヒントを得た……などだ。 いずれにせよ、ベルリンという場所とその歴史が、デヴィッド・ボウイの創作活動に大きな刺激を与えたことには違いない。 そんなベルリンに、変革の兆しが生まれたのは1985年のことだった。