「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられたヒグマなど…戦前の北海道で繰り広げられた人間と巨熊の死闘を伝える伝説の名著『羆吼ゆる山』(レビュー)
ヒグマの息づかいを聞くだろう
さて、保少年が経験した狩猟についてのみならず、本書第三章では彼と親交のあったアイヌの猟師たちの経験談が綴られている。 アイヌの人々はもともと鉄砲ではなく毒矢で狩猟をしていたことが詳しく説明され、彼らが時代の流れで鉄砲を手にし、手段は変わっても変わらぬ観察眼と注意深さ、そして山への敬意をもってヒグマを仕留める様子が活写されている。 なかでも、村田銃を手にひとり山に入る桐本仙造と金毛と呼ばれるヒグマの話が印象的だ。人と獣という間柄でありながらつかず離れず、まさに距離をおいた隣人という関係を築いていた一人と一頭の物語は、その結末も含めて切ない印象が残るエピソードだ。 不思議なのは、桐本氏がこの話を当時十六歳の保少年に初対面で語ったことだ。 昼飯を共にしながら、彼にとっては後悔さえ残る経験を山の中で偶然出会った少年猟師へと語る。ともすれば猟歴や成果について自慢話が多くなりがちな猟師という立場で、まるで懺悔のように口にされた昔語り。桐本氏の複雑な心のありようと、それを受け止めた保少年の間に、猟師同士でしか通じえないものがあったのだろう。 ヒトとヒグマ、ヒトと野生、そしてヒトとヒト。いっけん濃い緑一色に見える北海道の山林の中には、生き物の複雑なモザイクが息づいている。 ところで、冒頭で綴った、私が陶片を拾った二次林は、実は国有林なのだそうだ。数年前、行政によって再び伐採され、計画的植林がなされて帰省するたびに幼木が立派に育っていっている。 本書のあとがきで今野氏は移り変わってしまった自然の姿とかつての生活を留めおくために筆を執った旨を記していた。変わってしまったものは簡単に元には戻らない。しかし雄弁なる筆致で残されたかつての風景に、今の読者も、そして未来この本を手にとる人も、静かに心打たれ、製炭に関わった人達の熱気を知り、ヒグマの息づかいを聞くだろう。北海道の歴史において、苔むしてもなお厳然と立ち続ける道路元標のような一冊である。 [レビュアー]河﨑秋子(作家) 1979年北海道別海町生まれ。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)受賞。2014年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、同作で2015年度JRA賞馬事文化賞、2019年『肉弾』で第21回大藪春彦賞、2020年『土に贖う』で第39回新田次郎文学賞を受賞。他書に『鳩護』『絞め殺しの樹』(直木賞候補作)『鯨の岬』『清浄島』などがある。 協力:山と溪谷社 山と溪谷社 Book Bang編集部 新潮社
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