「赤毛」「銀毛」と呼ばれ恐れられたヒグマなど…戦前の北海道で繰り広げられた人間と巨熊の死闘を伝える伝説の名著『羆吼ゆる山』(レビュー)
驚異的な記憶力と観察眼
本書『羆吼ゆる山』の著者、今野保氏は、まさにその製炭業全盛期を生きた人物だ。父親が苫小牧の製炭業者に管理者として能力を買われた関係で、中湧別、足寄、日高と一家で居を変えながら大木生い茂る北海道の山地で青少年期を過ごした。まさに場所を変えて時代の動きを見据え続けた人物である。 木炭に適した木が生えるような場所は、そのぶん野生動物との距離も近い。というより、野生の領域に人間が踏み込む状態である。今野氏の父親は猟銃を所持し、ヤマドリなどを撃って肉を得るのみならず、人里に姿を見せる熊を警戒しなければ仕事と生活は成り立たない。そんな暮らし方のなか、保少年も当然銃を手に取ることを考え、父親の猟銃をこっそり持ちだして鳥を撃ち始めたとのことだ。それが父親に露呈した時、銃弾の選択を一瞬咎められはしたものの、次はこうするようにと弾の使い分けの指導をされたくだりに、当時の雰囲気と寛容さが感じられる。(現在の法律ではもちろん許されないエピソードだが、おそらく息子がいつのまにか猟銃を使いこなしていたことに父親は誇らしい思いを抱いていたのではないか、ともとれて微笑ましくさえある) そうして猟銃の扱いに習熟していく保少年が、山林で熊や他の獲物を追い、地域の住民たちと過ごす日々が、本書では驚異的な記憶力をもとに詳細に綴られている。 ことに特筆すべきは、獲物を求めて山中に入った際、生えている木に対する観察眼が鋭いことだ。木の種類は勿論のこと、生育状況、弱ってはいないか、他の蔓性植物が絡んでいるか、など、木の描写にかなりの紙幅が割かれている。おそらくは製炭業で身につけた樹種に対する知識と、炭に向く状態を瞬時に見分ける観察眼が、山に分け入る際の情報を豊かにしているのであろう。 また、獲物を発見した際の位置関係や地形、そして支流含めた渓流の場所までをも冒頭の地図に詳細に残せていることは、さすが山を知り尽くした業種ゆえの記憶力に拠るものと思われる。 人間の注意力というものは、あらかじめ受け皿を広げておかねば対象を認識することさえ敵わないことがある。極端な例としては、文明から遠ざかった密林で生活していた民族が、『飛行機』という存在を知らなかった故に、近隣に飛行機が堕ちても気づくことがなかった事例があるという。そこまではいかずとも、知識が狭く思い込みが強い人間が豊かな山に踏み入ったとしても、その豊かさや、時には危険すら知覚できずに過ごすことになる。本書は今野氏がかつての記憶を掘り起こしながら綴った手記がもとになっているというが、その記録の鮮やかさに、いかに青少年期に周囲への関心と観察を怠らなかったかということが伺える。 当時ならではの状況として、宵の闇に紛れて息を潜め、それこそ物音ひとつ立てずにヒグマが姿を見せるのを待つ描写は緊張感に溢れる。現在では発砲が許可されるのは太陽が出ている間、つまり日の出から日没までと厳しく定められている。しかも所持に関する規制も厳しいため、ヒグマが出たからと身内や親戚に気軽に銃を貸し出すということもできようはずがない。その意味においても、当時のヒグマとの距離、付き合い方を存分に感じさせられる、貴重な記録ともいえる。