大阪ミナミ「外国ルーツの少女」の成長【中編】 父子家庭で父が倒れた高2のメイと支える人たち
「それやったら、うちへ泊まりにおいで」 ウカイさんは即座にそう返事をした。 彼女にもためらいはあったという。「そんなことをしてもいいのかなって。私の生活の中に『支援活動』っていうものが、それまでとは全く違うレベルで入り込んでくることになるわけですから」 ■「このまま島之内で暮らしたい」 ウカイさんも当然、メイの生活支援に深く関わっていくつもりだった。ただ、支援者として10年以上の経験がある彼女にとっても、子どもを自宅で長期間あずかった経験はなかった。
「支援」と「生活」の境界がなくなることへのためらいは、私のような週一のボランティアには想像もつかない。 しかしその逡巡を、ウカイさんは瞬時に打ち消した。「メイの頼れる人が他にいないことは、教室での長い関わりのなかで十分に知っていましたから」 夫に事情を説明し、1カ月余りメイを自宅に泊め、高校へ通わせた。 ウカイさんはその間、メイに家事を教え込んだ。皿洗いや洗濯は、できるだけ自分でさせた。家計簿のつけ方も教えた。
「先々までメイが1人で暮らしていける力を、今つけるしかない。そのためにはウチでの合宿が一番やったんかもしれませんね」とふり返る。 メイも「ほんまに合宿。結構きびしかったで。食器洗う時に水出しっぱなしはあかん、とか」と笑いつつ、「ウカイ先生のおかげで、家事や節約のやり方がきっちりわかった。いったん生活を落ち着けることもできた」と感謝を口にする。 役所や病院での手続きにはキムさんが同行した。メイは17歳にして1人で暮らすことになり、役所からは児童養護施設に入ることも提案された。ただ、メイの意思は「このまま島之内で暮らしたい」だった。
キムさんらはMinamiこども教室のスタッフが生活を支えることを役所に訴え、島之内の自宅に住み続けることが認められた。 一連の出来事を私がメイから聞いたのは、正三さんが倒れた大型連休明けの火曜日だった。 いつも通りの教室での学習後、メイから「ちょっと」と呼び止められた。「お父さん入院してん」とメイは小声で切り出し、経緯を聞かせてくれた。気丈に話そうとはしていたが、目が潤み、声が震えていた。 軽い言葉はかけられないと自戒しつつ、私は「近所に住んでるんやから、困ったことがあったら何でも言うてきいや」と伝えた。