宝塚歌劇団でいじめられた、ゲイバーに繰り出した、とぼけ方が一流だった……「永遠のお嬢さま」朝丘雪路の生涯
日本舞踊で「お嬢さま」は育った
「二人ともあまり可愛がり方が過ぎるようですね。よそさまのめしを食わせるほうがお嬢さんのタメになる。どうでしょう、ぼくがお預かりしましょうか」 【写真】大胆な水着姿に全米騒然…トランプ前大統領の「娘の美貌」がヤバすぎる! 赤坂の料亭で、娘の進路を役者・花柳章太郎に相談していた画家・伊東深水にそう告げたのは、同席した阪急東宝グループ創業者・小林一三である。 この刹那、伊東と新橋芸者の間に生まれた加藤雪会の進路は、宝塚歌劇団に決まった。 3人は直ちに、雪会の芸名を考えた。早朝、丘の上に白い雪が降り積もる。その路を美しく歩く女優に育ってほしい―彼らのそんな"文殊の知恵"によって、朝丘雪路は誕生したのである。
舞台稽古で怒鳴られて
'35年に築地で生まれ、3歳頃から日本舞踊を始めた朝丘は、人力車で銀座の泰明小学校に通い、つねに付き添いがいたお嬢さま。 '52年、宝塚歌劇団に入っても別格の扱いを受け、劇団の先輩から舞台衣装を隠されるなどいじめられる。 朝丘、東郷たまみ(洋画家・東郷青児の娘)と'56年に「七光会」を結成した水谷八重子さん(初代・水谷八重子の娘)が振り返る。 「作曲家の服部良一先生の弟子として3人一緒に売り出すことになり、親の七光りが共通点なので『七光会』と名付けました。 でも、宝塚に入ってらした朝丘さんの舞台稽古を見に行ったとき、先輩から『あんたたちのコーラスが遅れてるのよ!』と怒鳴られて、彼女だけは七光りじゃない苦労を知っている人だと感じました」 宝塚退団後、朝丘の苦労は映画やテレビで実を結ぶ。
「天然キャラ」で大ブレイク
「私の胸回りを見てすぐに"ボインちゃん"と呼び、流行語になりました。巨泉さんはすごく頭がよくておもしろくて、私は手を叩いて笑い転げていたら、その天真爛漫さが視聴者に好評でレギュラーに抜擢されました」 生前にそう明かした朝丘が大ブレイクしたのは、'66年、人気深夜番組『11PM』(日本テレビ系)にゲスト出演してからだ。 実に16年も番組のアシスタントを務めている間、プライベートでは様々なことが起こった。 父・伊東のすすめで内科医と結婚し、男児をもうけるも、芸能の仕事を続けるうちにすれ違い、'72年に離婚。 翌年、一緒に巡業していた津川雅彦と結婚するが、長女・真由子が誕生した'74年に、大事件が起きる。 朝丘、津川、お手伝いさんが家にいたにもかかわらず、生後5ヵ月の長女が何者かに誘拐されたのだ。 犯人は電話で身代金を要求し、言われるがままに指定口座に大金を振り込むと、後日、口座から大金を引き出した犯人を警察が逮捕した。