「死ぬ間際」にほとんどの人が後悔する「たった一つ」のこと
老いればさまざまな面で、肉体的および機能的な劣化が進みます。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きがノロくなって、鈍くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになります。 【写真】知らないとまずい…「うつによる仮性認知症」と「本来の認知症」の見分け方 世の中にはそれを肯定する言説や情報があふれていますが、果たしてそのような絵空事で安心していてよいのでしょうか。 医師として多くの高齢者に接してきた著者が、上手に楽に老いている人、下手に苦しく老いている人を見てきた経験から、初体験の「老い」を失敗しない方法について語ります。 *本記事は、久坂部羊『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。
上手に死ぬ準備
近い将来、だれでも必ず死ぬのですから、そのための準備をすることは、いつ来るともしれない地震や津波に備えるよりも大事ではないでしょうか。 常々私はそう発言し、そのための情報提供もしてきましたが、まだまだ目を背けたまま何の準備もしていない人が多いようです。最後は病院に行けばいい、医者に任せればなんとかしてくれる、そんな不吉なことは考えたくないなどと思っている人です。 上手に死ぬためには、まず死を受け入れることが大事だと前著に書きましたが、その死を受け入れるというのがむずかしいのだというご意見をたくさんいただきました。何も今すぐ受け入れろと言っているのではなく、死に瀕したらということですが、それもやはりむずかしいのでしょう。 理由は簡単。人間は本能的に死を拒むようにできているからです。むかしはそれでも特段、問題はありませんでした。あまり苦しむ前に、自然が死をもたらしてくれていましたから。ところが医療が発達したせいで、いつまでも死を拒んでいたらたいへんなことになる時代になっているのです。 死が世間の目から隠されてしまったことも問題です。家で亡くなる人が多かったころは、死は日常の一部で、深い悲しみはあるものの、自然なものとして受け入れられていました。しかし、今、死は非日常で、あり得べからざるもののように拒絶されています。メディアでも、死は絶対悪で全否定すべきものという論調がもてはやされます。そこに理性は感じられません。 死を受け入れるためには、長生きの苦しみや、終末期医療の悲惨を見るのがいちばんですが、ふつうの人にはその機会はまれでしょう。高齢者施設の職員で、過剰な長生きを肯定し、自分もそうありたいと思っている人はまずいないでしょうし、医療者も最後の最後まで病院で医療を受けたいと思っている人は少ないはずです。両者とも適当なところで死ぬことの大事さ、快適さ、効率のよさを実感しているからです。自分が死ぬときは、医療の手を離れ、自宅や施設で自然な最期を迎えたいと思っている人が大半だと思います。