渡邉恒雄さんが名医・帯津良一さんに明かしていた“死生観” 「新聞社のトップはいつ殺されても不思議はない」
■70年間不眠症で睡眠剤だのみ 大学までいってからヒロポンはよくないとピタッとやめたが、睡眠剤のほうは、もう不眠症になっちゃってますから、毎日飲む。今でも5、6種類飲んでいますよ、ちゃんと医者の処方で。今日まで70年ぐらい睡眠剤を飲み続けている。たばこと一緒ですよ。だから、養生なんてなにもしていない。若いころから不摂生。昔は焼酎を一升一気飲みして、新宿の路上で寝てましたよ。気がついたら身ぐるみ何もなかったという記憶もある。 帯 99%死ぬと覚悟していた戦争が終わり命が助かったとき、これからどういう生き方をしようと考えられたんでしょうか。 渡 そのときは軍国主義に対する憤怒ですよ。我々に「天皇陛下万歳」と言って死ねと言った連中を生かしちゃおけん。それで大学に行ったら、共産党だけは、天皇制打倒と書いてある。ほかは天皇制護持ですよ。それで共産党に入ったわけ。ところが本部に行って、入党の申し込みをしたら、壁に「党員は軍隊的鉄の規律を遵守せよ」と貼ってある。冗談じゃないよ。軍隊いやだから、軍隊つぶすためにきたのに、ここでも軍隊か、となった。 帯 困りましたね。 渡 しかし、一度申し込んじゃった以上、あとに引けないから、なかに入って批判してやろうと思った。マルクス主義とカントをなんとか融合できないかと考えて主体性論争というやつを僕が提起してね。そうしたら若い哲学者、文学者がたくさん同調してきた。でも結局、共産党は除名。卒業して飯を食わなければならないが、哲学じゃあ食えない。で、文章を書いて食える商売なら、と思って新聞記者になったわけだ。 帯 記者になってみたら、やっぱり向いてました? 渡 向いていたね。とにかく書くことが楽しくて。政治部長になるまでは、新聞では足りず、週刊誌四つぐらい毎週2ページ書いていた。 帯 匿名ですか。 渡 もちろん。週刊新潮、週刊現代、アサヒ芸能でしょ。文藝春秋は月刊と週刊の両方書いた。それで月給の倍ぐらいの収入があった。新聞記者になって今日まで、この仕事はつまらないと思ったことは一度もない。ただ、飛ばされた時期はあるんですよ。僕は問題児でね。社会部から嫌われて、社会部出身が編集局長やっていたから、ある部屋に閉じ込められて、何にもすることがないの。つまり、ありがたいことにいくらでも内職原稿が書けた。その間に本も5冊ぐらい書いたんですよ。いちばん最初の本は、10日で書いたかな。 帯 そこらへんかもしれないですね、不摂生しても健康である秘密は。仕事に対する情熱みたいなのが、体の中に煮えたぎっている。これが養生なんです。それと、怒りもあるかもしれない。終戦のときの憤怒は、ずっと続いたんですか。 渡 それは続いていましたよ。今でもA級戦犯がいるかぎり靖国参拝反対ですしね。 帯 普段からわりと怒るほうですか。 渡 いえ、昔はよく怒ったけれど、いまはもうね、年中にこにこしている。社長になって20年、ずっと怒り続けたらおかしくなる。2、3年怒ればいいですよ。