大橋純子が旅立って1年、本人への取材や関係者の証言をもとにキャリアを振り返る デモテープに衝撃、敏腕Dが即オファー
【大橋純子の50年 永遠のシティポップクイーン】 歌手、大橋純子が昨年11月に旅立って1年。デビュー50周年にあたる今年はベスト盤が2作同時に発売されるなど元祖シティポップクイーンへの注目が高まっている。音楽ライターの濱口英樹が生前の本人への取材や関係者の証言をもとにそのキャリアを振り返る。 【写真】圧倒的なボーカリストだった大橋純子 1950年、北海道夕張市で生まれた大橋は4人きょうだいの末っ子。ラジオから流れる美空ひばりや島倉千代子の歌で育ち、兄3人の影響で洋楽を聴くようになる。実家は食堂を営み、3歳の時、客前で歌ったのが初ステージだった。歌好きの少女は小学校の学芸会で合唱のソロパートを任され、中学では合唱部で活動。セルジオ・メンデス&ブラジル'66に出会った高校時代はボサノバ一色の日々を送る。60年代後半、世の中はビートルズをはじめ新しい音楽があふれていた。 短大進学後は北海道大学軽音楽部のバンドに誘われ、ボーカルを担当。最初にコピーしたのがジャニス・ジョプリンで、ハードロックやブルースの洗礼を受ける。シャウト唱法をマスターしたのはこの時期で、あのパワフルなボーカルの基礎が培われたようだ。実力を買われてススキノのステージでも歌ったが、その間に音楽への思いが募ったのだろう。卒業後は家族の反対を押し切って上京し、ヤマハ音楽振興会のLM(ライトミュージック)制作室で働き始める。そこには人生のパートナーとなる作編曲家の佐藤健や、のちに編曲家として大成する萩田光雄や船山基紀らがいた。 ヤマハの仲間たちとバンドを組んだ大橋の歌唱力が評判を呼ぶのにそう時間はかからなかった。日本フォノグラムで森山良子や尾崎紀世彦らあまたの実力派を担当した敏腕ディレクター、本城和治は彼らのデモテープを聴いた瞬間、衝撃を受けたという。黒人ソウル歌手の楽曲を本家と同じキーで、シャウトやフェイクを交えて歌っていたからだ。 本人と会った本城は「君のレコードを作りたい」と即オファー。当時は大橋に合うポップスを書ける作家が少なかったため、ファーストアルバム「フィーリング・ナウ!」(74年6月発売)は洋楽カバー9曲とオリジナル3曲で構成された。とはいえ当時の音楽シーンは演歌やアイドルなど歌謡曲が主流。シングルカットされた「鍵はかえして!」を含めヒットには至らなかったが、24歳の新人の実力は業界で知られることとなった。 (濱口英樹) ■大橋純子(おおはし・じゅんこ) 1950年、北海道生まれ。74年にデビューし、日本人離れした歌唱力でヒットを連発。その音楽性がシティポップブームで再注目される中、2023年に73歳で死去。11月6日にデビュー50周年を記念した「THE BEST OF 大橋純子1974―1988」(ユニバーサル ミュージック)=写真=と「THE BEST OF 大橋純子 1988―2024」(バップ)が同時発売された。