日本軍の戦い方に最適だった国産山砲の決定版【94式山砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 砲は、ライフル銃のように狙撃(点制圧)をするのとは異なり間接砲撃(面制圧)を行う場合は、単位時間当たりどれだけたくさんの「砲弾の雨」を目標に降らせることができるかで、効果の良し悪しが決まる。つまり簡単にいえば、「大量の砲弾を量産」し、それを「円滑に最前線部隊に送り届け」て、「必要十分な弾量を撃て」なければ、間接砲撃の効果は低減してしまうということだ。 これは生産能力と輸送能力の限界が低めの当時の日本軍には難しいことで、ゆえに日本の砲兵が間接砲撃で赫々(かっかく)たる戦果を得られたのは、事前の準備がしっかりと行えた太平洋戦争の緒戦などであった。 しかし一方で、砲による狙撃となると日本軍操砲要員の「職人技」と「豪胆な勇気」には目を見張るものがあり、少ない砲弾や威力に劣る砲を用いて見事な戦果をあげることが間々あった。この傾向は歩兵と行動を共にする歩兵砲や山砲でよく見られ、山砲としてだけでなく歩兵砲としても運用された41式山砲などは特に活躍している。 こうした運用のしやすさや戦場での好評を受けて、日本陸軍は41式山砲の後継砲を1930年初頭から開発し、1935年末に94式山砲として制式化した。同砲は、41式山砲の性能の向上に加えて大幅な近代化を施したものとして完成。11のブロックに分けて馬や人力での搬送が可能で、分解と結合も、より容易に行えるように工夫されていた。 そして41式山砲と同じく山砲部隊のみならず歩兵砲部隊にも配備され、歩兵と共に最前線を進んで敵の機関銃座や隠蔽壕を狙撃的に破壊したり、戦車や車両のような動的(動く的のこと)を直射して撃破するなど、「最前線での運用に適した日本軍ならではの砲」として、41式山砲と共に大活躍した。 しかしその反面、最前線での運用は操砲要員に歩兵並みの多くの犠牲者を生じさせるという、人的損害を招く悲劇もつきまとっている。 なお、日本の敗戦によってまとまった数量の94式山砲を鹵獲(ろかく)した中国の軍隊(中華民国軍と人民解放軍)は、戦後もしばらくの期間、本砲の運用を続けたという。
白石 光