殿堂入りした巨人・斎藤にあった二刀流からの転機
ゲストスピーチには巨人の投手コーチとして斎藤を支えてきた堀内恒夫氏が壇上に立ち、「なんとか2世と呼ばれる選手はだいたい大成しない。彼も堀内2世と呼ばれたが、ジンクスを打ち破った。私と彼は、入った当時の境遇が似ていて、2人共に投手と野手の二刀流。私のときは広岡さん、彼のときは黒江さんの次の野手がチームとして欲しかった時代で、投手が駄目なら野手でという球団の思惑があった。藤田さんが、オーバーハンドをサイドハンドに変えたことが転機になった」と、隠れたエピソードを披露した。 斎藤も、市立川口高校から1982年に巨人にドラフト1位指名されたルーキーイヤーの当時を懐かしそうに振り返った。 「1年目の5月です。多摩川での2軍の練習に、1軍の藤田さんがきて、『少し腕を下げて見ろ』と言われた。当時は、ピッチャーの練習の後に、バッティング練習をやらされていた。今で言う二刀流だが、“なんで俺だけこんなに練習をしなくちゃいけないのか”と、それが嫌で嫌でしょうがなくて、バッティングコーチに怒られるくらいだったので、藤田さんに言われたサイドハンドへの転向で、ピッチャー1本になって嬉しかったことを覚えている」 故・藤田監督は、「腰の回転が横だから、同じ腕の振りとなるサイドスローの方が生きる」と見抜いたそうだが、「投げ始めは、上から投げているほうがストレートは速かったが、カーブがすごく曲がった。それで面白いなと思った」という。 以降3か月間は、イースタンのゲームにも登板せずに、ひたすら体作りとフォーム固め。9月になってようやく地元埼玉の大宮で行われたイースタンのゲームで初めて先発チャンスをもらい、「負けたけれど、確か7回か8回を1点くらいに抑え、これでプロでやっていけるかな」と、自信をつかんだ。 サイドハンドへの転向が、二刀流にピリオドを打つことになり、そして、巨人のエースへ……藤田元司という名将との出会いがなければ、斎藤の今はなかったのかもしれない。運命は、努力で切り開くものではあるが、決して一人だけでは変えることはできないのだ。