「官兵衛だ」秀吉は次の天下人をこう言った 智謀の人・黒田孝高が差し出した姫路城
『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の"城好き"で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、黒田孝高と姫路城です。 【画像】甲冑と、夜明けの“ドーンパープル”に浮かぶ姫路城、美しい……
"白鷺城"は世界遺産
姫路城はいわずと知れた世界遺産で、日本で最も美しい城のひとつでしょう。秀吉がまだ羽柴姓だった頃、三重の天守を築いたとされますが、白鷺城(はくろじょう)と呼ばれる現在のような姿に整備したのは、徳川家康の娘婿でもあった池田輝政です。 美しい城を築いたのは池田輝政ですが、姫路の地を歴史の舞台に押し上げたのは、官兵衛とも呼ばれる黒田孝高(よしたか・官兵衛)です。
秀吉の天下取りの足がかり「中国大返し」
秀吉が天下取りの足がかりを得た「中国大返し」。その策を秀吉に進言し、戦略を練ったのも黒田孝高でした。 天正10(1582)年、織田軍の中国方面司令官として、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにし、援軍に来た毛利勢2万と対峙していました。 中国大返しとは、その時に起こった本能寺の変を受けて、京都山崎まで200kmの道のりをわずか10日間ほど、実質5日間で駆け抜けた戦国屈指の強行軍のことです。あれがあったから秀吉は天下人になれたのです。
「目薬屋」と呼ばれた背景
黒田孝高は播磨の国、姫路に生まれました。祖父は目薬や馬の薬を調合し生計を立てたといい、後に九州筑前で大名になった際、名門の島津家から「目薬屋」と呼ばれるのは、このことによります。 孝高は播磨の国の武将で姫路城主の小寺政職(まさもと)に仕え、父・職隆(もとたか)の跡を継ぐかたちで家老職に任命されます。24歳の時でした。
「織田につくべき」
その後、播磨の国は織田、毛利の2大勢力が争い、小寺氏はどちらにつくか決めかねていました。その際に織田につくべきと進言したのが孝高でした。天正3(1575)年長篠の合戦で武田勝頼を倒した信長の才能を評価したからにほかなりません。同じ年、孝高は、秀吉の取りなしのもと岐阜城に出向いて、信長に謁見、服属します。 そして、信長の対毛利中国侵攻の際、孝高は秀吉軍に属し、息子である松寿丸(後の長政)を人質に差し出します。臣下の礼をとる孝高に、秀吉は「その方は、わが弟、小十郎(秀長)同然に心安く思っている」という手紙を送っています。 さらに秀吉が播磨に到着すると、居城である姫路城を差し出し、自分は二の丸に移ります。秀吉が姫路城を拠点にするのはこの時からです。