戦時中に製造「幻の貨幣」50万枚、倉庫から発見 金属の代わりに使われた京都ならではの材料は
太平洋戦争末期の金属不足に伴い、陶器で造られた代替貨幣「陶貨」が、歯科材料・機器総合メーカー「松風」(京都市東山区)で大量に発見された。発行前に終戦を迎えたため、流通することはなかった「幻の貨幣」で、その数は50万枚を超える見込み。当時製造された陶貨の多くは戦後に処分されており、一度にこれだけの量が見つかるのは異例。79年前の遺物が戦時下の貨幣事情を物語っている。 【写真】1銭陶貨に刻まれていたのは 同社に眠っていたのは1銭として使われる予定だった陶貨(直径15ミリ、重さ0・8グラム)。茶褐色で、片面には「壹」の文字と富士山、もう片面には「大日本」の文字と桜花が刻まれている。2022年に創立100周年を迎えたことを機に社内で資料整理を行っていた23年8月、倉庫内で発見された。「一銭臨時貨幣 貳拾圓 造幣局」と記された袋などに入れられ、木箱で保管されていた。 造幣局(大阪市)によると、戦況の悪化で金属の需給状況がひっ迫した太平洋戦争末期、硬貨の材料は銅から、比較的入手しやすいアルミニウムや錫と亜鉛の合金に切り替えられた。1944年ごろには、金属以外で造る研究が始まり、計17億枚の陶貨を製造することが決まったという。 造幣局は、製陶業の盛んな京都市と愛知県瀬戸市、佐賀県有田町で、空襲の危険性が少ない▽粘土など材料が入手しやすい▽設備が整っている―などの条件を満たした製造工場を選定し、45年4月に出張所を開設。京都は松風の兄弟会社で、輸出用の陶磁器などを製造していた「松風工業」(67年に解散)が請け負った。松風によると、一部工場を陶貨工場に転換し、女学校からの学徒動員で試験生産に取りかかったという。 一方、45年6月の大阪空襲で造幣局本局の工場が消失し、陶貨製造機も焼損するなどしたため、製造が始まったのは7月だった。京都で10銭と1銭計約200万枚、瀬戸で5銭と1銭計約1300万枚が造られたが、想定していた流通量に達せず、発行を見合わせている間に終戦に。造幣局は廃棄を指示し、多くが処分されたという。 終戦前、金属回収の必要性を感じた松風工業の松風憲二社長が、硬貨を陶貨に替えるよう政府に建言していた、との資料が残っており、松風の岩﨑滋文・総務部長は「このやりとりが陶貨製造を担うきっかけの一つになったのでは」と推測する。 松風は見つかった大量の陶貨や麻袋、木箱などを今年9月、造幣局に引き渡した。同局は「これだけの量が見つかるのは珍しく、歴史的に貴重な資料だ」と評価。今後、陶貨の状態や当時の製造事情を調査するとともに造幣博物館などでの展示も検討している。