江戸の人気絵師・葛飾北斎が認めた女流絵師の正体とは? 家事を放棄して酒とたばこに金をつぎ込む型破りな娘
近年、注目を集めている浮世絵師がいる。それが葛飾北斎の娘葛飾応為(おうい)だ。北斎の研究家たちが、父の陰に隠れていた応為を評価し始めた。 ■才能を開花させて父・葛飾北斎が称賛する絵師に成長 浮世絵師というとどんな人物を思い浮かべるだろうか。その中の1人にはいるのが葛飾北斎だろう。北斎には4人の娘がいたが、このうちの1人が、女流浮世絵師として名を残した最初の1人だといわれている葛飾応為だ。本名を栄(えい)というが、彼女は生年の記録が残っていない。応為は北斎の2人目の妻から生まれた子で、2男4女の3女として生まれたことはわかっている。そのほか応為に会ったという人の証言などから北斎が37歳くらいの子だったのではないかとされている。となると寛政8年(1799)頃に生まれたようだ。 子供の頃から父親の書きそんじを手本にして絵を描いていたといい、わずか14歳の時に『狂歌国尽』という本の中にカットを描いて商業でデビューした。彼女の才能に気が付いた北斎は、娘に真剣に絵を教えようとしたのだろうか、『略画早指南』という絵の手引書を著した。これを見れば北斎が描く絵の極意がわかるようになっている。身内に物を教えることは時には取返しのつかないけんかに発展することがある。栄は男勝りな性格だったというから、北斎は衝突を避けようとしたのかもしれない。そのおかげか「美人画は俺よりもうまい」と北斎に言わしめるほどの腕前となった。 絵師として英才教育を受けた栄だったが、浮世絵師の南沢等明と結婚し、表立って絵を描くことをやめた。しかし、絵師としての教育は受けたもの、当時の女性ができなければならないとされた炊事、洗濯、針仕事の教育は受けなかったのかまったくしなかった。不器用だからという訳ではなく、内職で作っていた豆人形は評判が良かったという。こうして稼いだ金はすべて酒、たばこなど自分のために使ってしまい、その上夫の作品を酷評した。北斎の絵を毎日見ていれば大抵の絵はへたに見えてしまうだろう。早々に離縁されてしまった。 離縁後は北斎と同居した。この後、北斎が彼女を「おーい」と呼んだことから「応為」という画号を使うようなったという。娘が父親と同居するといえば、炊事、洗濯、掃除など北斎の生活面をサポートように思われるかもしれないが、家事をしないことを理由に離縁されているだけあって炊事はしないどころから使った食器すら洗わない、掃除もしないのでゴミがたまって居場所がなくなるほどになると引っ越すという生活だったという。そのため北斎は90回以上も転移したのだそうだ。 家事一切をしない代わりに応為は、父のそばでひたすら絵を描き続けた。その割には応為のものと認定されている作品があまりにも少ない。その一方で北斎は老いても精力的に作品を発表し続けた。普通の人ならば年をとれば気力が落ちるし、目もよく見えなくなるため作品数が減って当然なのだが、70歳を過ぎて刷り物から肉筆画へと移行した北斎は精力的に作品を発表している。一点ものの肉筆画は、刷り物以上に集中力と実力が問われる。70歳を過ぎた絵師にはなかなか厳しい作業である。 しかし、それを可能にするからくりがあった。北斎の下書きを応為が彩色し仕上げていたというのだ。これは、晩年になって北斎の色使いが替わったことや、応為の作品の特徴である女性の髪や指、着物などの細かい描写などがみられるため、近年専門家が唱え始めた説である。 では、なぜそんなことをしたかといえば、金が必要だったからだ。北斎は当時もっとも画料の高い絵師の1人だった。絵以外には興味がない。同居する応為も父とは違い酒とたばこを嗜むが、絵を描いているか、占いをしているかというおよそ金のかかることとは縁がない生活を送っている。肉筆画に使う平絹や絵具などの画材は非常に高価で北斎はそれを惜しげもなく使ったということもあるが、実は応為の姉の息子が、北斎をして「悪魔」とまで言わしめるほどのとんでもないやつだったのだ。あちらこちらに北斎の名前を語って借金をするなどし、その後始末を北斎がしなければならなかったのだ。いくら勘当した、縁を切ったといっても借金取りが押し掛ける。実は30回も画号を替えたのも引っ越を繰り返したもの、借金取りから逃れようとしたからだという説もあるほどだ。 いくら美人画が上手でも応為の名前では、高く売ることができない。そのため、高く売れる北斎の名前を使う父娘合作という手法がとられたのだろう。 80代になっても精力的に活動していた北斎であったが、90歳で亡くなった。父亡き後、応為は裕福な家庭の娘などに絵を教えていたという。情に厚い性格だったそうだから、親身になって指導に当たったのだろうか評判が良かったという。また、手紙で見本の絵を送って指導する通信教育も手がけていた。 最期は諸説あるが、安政4年(1857)頃、戸塚の文蔵という人に請われて筆を持って出かけた後、消息を絶った。これが本当ならば応為は出かけた先でどんな絵を描いたのだろうか。北斎が絶賛したという美人画だったかもしれない。
加唐 亜紀