【玉木正之のベースボール今昔物語】ダフ屋で買った50ドルのチケット、摩天楼の中の球場、治安最悪の帰り道……43年前のドジャースvsヤンキースのワールドシリーズと時代の情景<SLUGGER>
……というわけで、美しい夜のメジャーリーガーたちのパフォーマンスに、脳内がぼーっと酔うほどひたすら感激。試合が終わった後はフランク・シナトラの『ニューヨーク・ニューヨーク』が流れ、私も大合唱に加わった……ところまでは悪くなかったのだが、その後、死ぬほどの恐怖が待ち構えていた。 何しろ80年代のニューヨークである。ヤンキー・スタジアムがあったサウス・ブロンクスは全米一の治安の悪さで有名で、殺人事件も日常茶飯事の有様だった。ベースボール・ライターのロバート・ホワイティング氏にも、「ヤンキースタジアムの1階席では、2階席からスナイパーに狙われないよう気をつけろ」と忠告されたほどだったのだ。ニューヨークの街を歩く時には絶対にビルの近くを歩かないこと、ビルの陰から何が飛び出してくるか分からないから……とも言われた。当時ヤンキー・スタジアムでナイトゲームを見た観客は、試合が終わると誰もがさっさと集団で家路についたものだった。 私と同じように日付が変わるまで『ニューヨーク・ニューヨーク』を熱唱し、ヤンキースの勝利を喜んでいたのはマイカーで球場に来た人ばかり。地下鉄でやってきた私のような人間は、絶対に集団で一目散にサウス・ブロンクスの無法地帯から逃げ出すべきだったのだ。 深夜のヤンキー・スタジアムを後にした私は、一人で恐怖に震えながら真っ暗な道を歩き、酔っ払いや上半身裸で涎を垂れ流しているドラッグ・ジャンキーと目を合わさないよう、足早に地下鉄の駅まで辿り着いたのだった。だが、いざ地下鉄に乗っても、数少ない乗客はほとんどが酔っ払いか、通路に倒れたままのドラッグ・ジャンキーと思えるような者たちばかりで、恐怖は続いた。 そんな連中から逃れるように足を忍ばせて隣の車両に移ったら、そこにはデカい男が腰に拳銃をぶら下げて立っていた。制服で分かった。彼はポリスだったのだ。私が泣きそうな顔で笑ってみせると、彼は腕を伸ばして手招きしてくれた。「You are fool!」(おまえはアホか!)。巨漢のポリスに笑顔で言われたそのひと言は、美しかったヤンキー・スタジアムの風景とともに、今も私の心に刻まれている。 43年を経た今年のワールドシリーズは、以前に比べてずっと安全な街へと変身したニューヨークで、はるかに高額となった入場料(何しろ平均価格が1000ドルを超えているのだから……)を支払う観客の前で行われる。ニューヨークと似たような歴史を歩んできたロサンゼルスにおいても、文脈としては同様だろう。 43年前とは時代背景が大いに様変わりしてしまったが、今年のワールドシリーズもまた、素晴らしいゲームとなるに違いない。ベースボールはいつでも、どんな世の中でも、その時代に合わせた最上の想い出を残してくれるものだから……。 文●玉木正之 【著者プロフィール】 たまき・まさゆき。1952年生まれ。東京大学教養学部中退。在学中から東京新聞、雑誌『GORO』『平凡パンチ』などで執筆を開始。日本で初めてスポーツライターを名乗る。現在の肩書きは、スポーツ文化評論家・音楽評論家。日本経済新聞や雑誌『ZAITEN』『スポーツゴジラ』等で執筆活動を続け、BSフジ『プライムニュース』等でコメンテーターとして出演。主な書籍は『スポーツは何か』(講談社現代新書)『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)など。訳書にR・ホワイティング『和を以て日本となす』(角川文庫)ほか。
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