美食の数々を味わいながら南仏に生きた画家に思いを馳せる――河村季里の生と死を思索する名随筆『旅と食卓』の誕生秘話
◆《第二部 角川春樹、行きつけの店》
――ここからはボーナストラックと言いますか、本書にちなみ、角川社長の日頃の「食」についてのお話も聞かせていただけると伺っています。 角川 そうなんだよ。私がどんな店に行っているのか知りたいという人が多いらしいんだ(笑)。季里ともよく行く店ばかりだし、いい機会だと思う。実は今日も「白虹」で一緒に昼飯を食べた。ここは日本料理の店だが、ランチにはビーフシチューを出すんだ。どうだった? 河村 旨かったですよ。ご飯とよく合っていた。だから、言うなればB級のビーフシチューだよね。A級に合うのはパンだから。 角川 その指摘は面白いなぁ。でね、最初にカツカレーのことを話したいんだ。 河村 本当にB級好きだね(笑)。 角川 間違いない。最近読んだ一冊に稲田俊輔さんが書いた『おいしいものでできている』がある。いろんな料理のことを興味深く書いているが、その中でカツカレーの美味しい店がないと言うんだね。カツも大好き、カレーも大好き。好きなものが二つ並べば 1+1で3くらいになるはずなのに、まだ3の店に出会っていないと。確かにそうなんだよ。だが、「キッチン谷沢」という洋食屋を知って変わった。これは「ランティエ」にも連載頂いていた藤野千夜さんの『じい散歩』に出てきた店で、気になって行ったんだ。ここのカツカレーは、1+1が3だった。 河村 ほう。角川春樹にそう言わせますか。 角川 まだ続きがある。季里とも何度も行っている池袋の「吉泉」は私が三十年通う店だが、行くたびに必ず一品、今まで食べたことのないものが出る。料理人の伊東敏壽くんの頭の中には私が食べた三十年間のメニューがすべて入っているということだね。そんな彼が新しい一品として出したのが、土鍋で炊いたマツタケご飯の上に、いくらをドバッと入れて混ぜたものだった。 マツタケは美味しい。いくらご飯も美味しい。でも、組み合わせたらどうなるか。2にもならないと思っていたが、まさかだった。1+1が10なんだ。私がこれまでに食べてきた中でナンバー1の食事だ。 河村 彼にとっても一世一代の料理だったんじゃないか。 角川 そうだろうね。「九段プレジール」で飲んだコンソメスープも、私の中でのナンバー1のコンソメだ。いつもはポタージュなんだけど、あまり日を置かず行くことがあって、わざわざ変えてくれたんだ。このコンソメを作り上げるのに一日半掛かったそうだけど、普通は一人の客のためにそんなことはしない。つまり、全部、私と料理人との戦いなんだ。 河村 まさに一期一会だね。料理とも一期一会だけど、料理人と客との関係も一期一会。「吉泉」も「九段プレジール」も角川春樹という食い手と勝負しているんだよ。 ――先ほどの、料理人も含めて味わうということに繋がるお話ですね。 角川 「草片」もそういう店だね。帖地華菜恵さんという女性がシェフをやっているイタリアンだが、その日彼女が私のために用意したのが、生まれて初めて釣ったという鮎だった。美味しかったよ。この人に食べてもらいたいという思いが伝わってきた。だからこそ、客に媚びているだけだと思えば、そう伝えてもいる。「割烹すずき」で出た魚にオリーブオイルが掛かっていたことがあっただろう。私は言ったよ、オリーブオイルは余計だと。 河村 そんなこともあったね。 角川 試みの一つだというのはわかるが、料理人として本気で客に満足してもらいたいと思っているのかと問うた。そうしたら、次に行ったときは最初から最後まできちんと統一されていて、素晴らしかった。去年の暮れに一緒に行った「うえ村」もそうだよ。美味しいが、量が多いんだ。 河村 多すぎて、ある意味、無駄が多かった。 角川 そう。途中でお腹がいっぱいになってしまうから、だんだん美味しくなくなっていく。だから、量を四分の一減らして、その分を材料に掛けろと言ったんだ、具体的に。やはり変えてたね。と、私はいろいろと店に言うわけだが、それは「すきやばし次郎」の小野二郎の一言がきっかけなんだ。「昔は旦那衆がいて育ててくれた。 今は企業家たちがビジネスの話しかしない。角川さんが最後の旦那です」とね。俺の役割だと思った。だから、旦那として料理人にがんがんプレッシャーを掛けてるわけだ。 河村 僕も掛けてるよ。 角川 山田風太郎の『あと千回の晩飯』ではないが、あと何回食べられるんだろうと思うと、一食一食を大事にしたい。納得した店で食べたいんだよ。 河村 同感だね。一食だって無駄にしたくない。 角川 したくないね。だからと言って私はグルメじゃない。「グルメですね」と言われるのは本当に嫌なんだよ。私は食べるプロなんだ。 河村 料理が人を選ぶんだよ。この人以上の食い手はいないだろうね。 [文]角川春樹事務所 協力:角川春樹事務所 角川春樹事務所 ランティエ Book Bang編集部 新潮社
新潮社