附属池田小事件から22年。宅間守という“モンスターの影”は抹消されたのか?「ワシが自分で息子の首を落としたかった」…死刑執行直後に明かした実父の胸中
死刑執行後の実父の暮らしぶり
「もうどうにもならんのよ。こうやってあんたと電話をすることもつらいんや。歩くことができんのやから」 2019年、正月。新年の挨拶かたがたAさんに電話をかけると、消え入りそうな声でこうつぶやいた。 守の死刑執行から15年。その間も年に何回かAさんと連絡を取ってきたが、久しぶりに聞いたAさんの言葉には力がなく、86歳と高齢ということもあり、胸がざわついた。 2月1日。安否確認のため、わたしは兵庫県伊丹市に向かった。Aさんと会うのは2年ぶりだ。前回は足の踏み場がないからと、玄関の上り口に腰掛け、ビールを飲みながら近況を語り合った。 「足がわろうなってな、バイクがないと買い物にも行けない、ワシは生きていけんのや」 そう語っていたAさんのバイクには植物の蔦が絡まり、錆びついていた。かたわらには真新しい電動自転車があった。 「まあ上がれや」 上着を何枚も着込んだAさんが玄関を開けてくれた。顔を見た瞬間、あまりの痩せように「お父さん、大丈夫かよ」とわたしは思わず叫んでしまった。 「昔は82キロあったが、今は55キロしかない。去年の11月24日に電動自転車で用足しに出たら、4、5キロの荷物でバランスを崩して、後ろにひっくり返ったんや。尻餅をついた瞬間、強烈な痛みが走って動けなくなった。 なんとか自転車にまたがって家に戻ったが、それから歩かれへんのや。1週間はできそこないのパンを食べたり、ビールばっかり飲んで過ごしていたわけや。一向に治らんから、家内が世話になっていた養護老人ホームの係員に連絡したら動いてくれたんよ」
「もうマスコミのおもちゃになりとうないんや」
今回の訪問で、わたしは長男の自殺の原因を聞いてみた。 「原因は厭世やろ。離婚して、職業もいろいろ変わって長続きしなかった。やっぱり自分はあかんと思たんちゃうか。当時、マスコミがヒトラーの『わが闘争』は守の本だと報道しよったが、あれは兄の蔵書や。ただ、なんでそんな本を読んでいたのかワシにはわからん。 ワシに確認を取れば、そんな間違いはなかったのにな。ワシを憎もうと、どないしようとかまわへんけどな、嘘を書きよることがマスコミというかメディアの姿なんだ、とあのときに感じたよ」 当時、ある月刊誌が守と母親の近親相姦を報じ、Aさんは激怒して出版社に猛抗議したことがあった。 Aさん夫妻は一時期別居したことがあり、そのとき守は母親と同居していた。「守はそういうこと(近親相姦)もやりかねないヤツや」とわたしもAさんから聞いたことがあったが、「裏も取っていないことを書くな」とAさんは憤慨した。 「あいつらも、あんたかてそうや、全部商売のネタやないか。もう、これっきりにせいや。原稿料がちょこっとでも入ればそれでよかろうが」 返す言葉はなかったが、わたしは加害者の父親の苦悩を書き残すことの意味はあると考えていた。 Aさんの了解を得て守の部屋に足を踏み入れると、自衛官のポスターが剥がれていた。前回は気がつかなかったが、航空自衛隊の戦闘機のポスターが多数張られていた。守の夢の名残はそのまま漂っていた。 Aさんは腰をかばうように横になりながら、わたしに対応してくれた。わたしがおいとまさせてもらおうと声をかけると、Aさんは「ビールを飲もう」と言い出した。 「お父さん、まだまだ長生きできるよ」 「長生きしてもええやら悪いやらな。失望することが多かったりするとな、なんの意味もないしの。よかったなと思うようなことはもうない。ワシの人生はなんやったのかな」 守の死刑が執行され、ひとつの区切りがついたとき、Aさんから「これからはワシが死んでから記事を書けや。もうマスコミのおもちゃになりとうないんや」と言われた。 しかし、その後も何度も書いてきた。それは「おもちゃにしていない」という自負がわたしにはあったからだ。 この日が、Aさんと対面した最後の日になった。