附属池田小事件から22年。宅間守という“モンスターの影”は抹消されたのか?「ワシが自分で息子の首を落としたかった」…死刑執行直後に明かした実父の胸中
昭和・平成 闇の事件簿3~附属池田小事件 #3
日本犯罪史上まれに見る無差別大量殺人として社会に衝撃を与えた「附属池田小事件」から今年で22年が経った。事件当時、宅間守・元死刑囚の実家で寝泊まりし、実父Aさんと十数年間にわたって交流を重ねた記者・小林俊之氏が知る事実とは。本稿では、守の死刑執行後の実父の暮らしぶりと、最期の言葉が明かされる。 【画像】航空自衛隊時代の宅間守・元死刑囚、自筆した中学校時代の学習ノートなど画像多数
「ワシに恨みを残して死によった」
2004年9月14日。宅間守の死刑が執行された。 殺人事件の取材で名古屋のホテルにいたわたしは、守の実父であるAさんに電話をかけた。 「そうか、テレビで知ったか。なにもあらへん。遺体は入籍した女が引き取るそうだ。あいつ、籍入れてたんだな」 死刑確定後、守は同世代の支援者の女性と獄中結婚していた。Aさんは淡々と続ける。 「実はな、脳梗塞になって2週間入院してたんや。8月28日に退院したんだ。ろれつが回らなくなったよ。ら、り、る、れ、ろ、ちょっとおかしいやろ」 2日後、わたしは伊丹に飛んだ。Aさん宅の前に、マスコミはひとりもいなかった。「お父さん」と大きな声で叫ぶと、「おお。よう来た」と白シャツにステテコ姿のAさんが出てきた。この日は取材というより、ウイスキーを飲みながら雑談した。「泊まっていけ」と言われたが、疲れている様子だったので辞退した。 翌朝9時。Aさん宅を再び訪ねた。 「あの日の朝8時すぎに『大阪拘置所です』と電話があった。ははあん、と思ったが、一瞬、夢かなと思ったよ。『今朝、執行しました』と丁寧な言葉やった。『ご遺体は奥さんが引き取るということなのでお父さんもご了承ください』と。これでひとつの区切りがついた」 Aさんは淡々と語り続けた。 「感情が動くことはなかった、と言うと嘘になる。それが証拠に血圧が上がっておるわ。あの日から上がったままや。ここ2日、3日でパアーッと上がったわ。まあ、ビールの飲みすぎもあるが。気のつかんところで気にしてるのとちゃうか。 新聞記者が来よるし、足がえろうて立てないんや。それでビールを飲んでまぎらわしていた。ワシが首を落としたかったんや、ほんまは。息子の処置はオヤジさんに任すと言われたら、ワシはすぐに首を落とす。それぐらいのことはまだできるんや。スパッと落とせるかどうかはわからんで、でもとどめは刺せるんや。老いたといえ、命ぐらいは取れる。そこまでのことをあいつはやったんや」 わたしは、守は子どもを殺したことに1ミリでも反省はなかったのか、とAさんに聞いてみた。 「捕まってすぐに申し訳ないようなことを言っていたはずや。あれがヤツの本心だったと思う。周りが反省しろとか、なんだかんだ言うと、あいつは意地になって逆のことを言うんや。そういうところはわしと一緒。よう似ておる」 あんな守でもいいところもあったんだろうか、と聞いた。 「あいつにだっていいところはあった。しかし、死ぬまでワシはそれを口にせんつもりや。ワシに恨みを残して死によった。『オヤジの言うことを聞いていればよかった』と後悔の念が少しでもあったら救われるやろうが、まあ、それはあいつの気持ちのなかやな。そんなもの、わからへん」 Aさんはこれからどうするのか。 「けじめがついたとはいえ、これからどうのこうのはない。まず身辺整理やな。自分もそろそろ死に臨まんといかんしな」