人生の絶頂を迎えた式の壇上で倒れて死去…「文化人類学」を生み出した天才の「壮絶な最期」
スピーチの途中で突然…
ドイツの貴族マクシミリアン・フォン・ウィート=ノーウィートは、1839年から1841年にかけて2巻本『北米奥地探訪』を出版しています。その中では、ミズーリ川流域に住むマンダン、ヒダツァなどのネイティブ・アメリカンが描かれています。 そんなアメリカのネイティブ・アメリカン研究を大きく発展させたのが、ドイツ生まれの移民だったボアズです。 1858年にドイツのウェストファリア地方のミンデンのユダヤ人の家に生まれたボアズは、ドイツ北部のキール大学で物理学を修め、水の色の認識についての博士論文を執筆し、1881年に博士号を取得しています。 博士号を取得した後、環境と人間の心理の関係に興味を持ったボアズは地理学に転じます。当時、彼は「個々の文化は独自に発生する」という文化史観を持っていた博物学者アドルフ・バスティアンの影響を受けていました。そして産業化し、ますます複雑になっていく社会とは反対の単純な環境で生き続けている人たちを調査研究するために、1883年にカナダ北東部のバフィン島へエスキモーの調査研究に出かけます。そこでボアズの人類学者としての人生がスタートしたのです。バフィン島の調査をきっかけに非西洋の文化に関心を持ったボアズは、その後、ベルリンの民族博物館に勤め始めます。 ドイツはその頃、ヨーロッパの中では発展途上国でした。鉄血宰相として知られるビスマルクがイギリスやフランスに対抗できるような国民国家としてのドイツの統合を目指すようになったのは、これよりまだ後のことです。当時、ドイツでは徐々にユダヤ人が排斥される風潮が高まっていました。ユダヤ人であったボアズはその流れに巻き込まれ、憂鬱な日々を送っていたのです。 そんな折、ボアズは1886年にふたたび北米西海岸の調査研究に出発し、そのままアメリカに移住することを決めます。彼は1887年にニューヨークで市民権を得て、1889年から1892年までクラーク大学で人類学を講じています。 ボアズはシカゴの博物館勤務を経て1896年にコロンビア大学の講師になり、1899年には教授に昇進します。そこでアメリカ初となる人類学の博士課程の設置に力を注ぎました。その後、コロンビア大学を1937年に退任するまでの間に、多くの後進を育てます。1942年、ボアズは彼の栄誉を称える記念昼食会の席上で「人種に関する新しい理論を考えだし……」と呟き、そのスピーチが終わる前に倒れ、そのまま息を引き取りました。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳