「さあ、16回目のCL優勝へ!」絶対的な勝者と信じ抜くからこそ…“レアル・マドリー”は皆の心に宿り続ける
名監督
マドリーの近年の補強方針は、資金力で太刀打ちできない国家クラブの出現で大きく変化し、大物選手の獲得から有望な若手選手の青田買い(それでも多額の移籍金を支払ったりしているが)にシフトした。 バルベルデ、ヴィニシウス、ルニン、ブラヒム、ロドリゴ、ミリトン、カマヴィンガ、チュアメニ、ベリンガム……デシマ以降、CLで何度も優勝してきたクラブに憧れる若手たちは加入前から“レアル・マドリー”を頭の中や心の中に宿し、先輩たちの導きでそれを具現化している。……いや、若手だけではない。31歳リュディガーは世界最高のCB級の活躍を見せ、苦労人である34歳ホセルも今季マドリーが収めた成功に欠かせなかった。“レアル・マドリー”は、チーム内のほぼすべての選手に浸透している。 そして、監督の存在も重要だ。マドリーは明確なプレースタイルを持たず、勝てない時期が続くと批判とともに「やはりスタイルが必要なのではないか?」という論争が常々巻き起こってきた(メッシとグアルディオラのバルセロナが欧州を席巻していた時期が最たる危機だったろう)。しかしアンチェロッティ(加えてジダンも)は、マドリーというまるで大洋のような存在を、プレースタイルといったような枠で囲う無謀な真似をしなかった。 映画界の名監督は、名優と呼ばれる役者に細かい指示を行わず、用意するセットや状況から凄まじい演技を引き出すというが、アンチェロッティもまた然りである。選手時代のジダンのプレーを見て、個の力を信じる大切さを痛感したというイタリア人指揮官は、ありとあらゆる状況で個々の力を生かそうと試みている(例えばドリブル突破の総量が年々激減している欧州フットボール界で、類い稀な才能を持つヴィニシウスにちゃんと勝負をさせている)。彼は個々を重視しつつもそれを“勝つ”ために使うのが非常にうまく、その道程においてチームは守備的にも攻撃的にも振る舞う(これは攻守の切り替えがシームレスになりつつある現代フットボールにも合致する)。そしてクラブの見事な補強手腕により、その陣容には名優ばかりを揃えるのだ。 アンチェロッティと、自分たちが誰より優れていると自覚する選手たちは知っている。もしフットボールが暴力なき代理戦争なのだとしたら、自分たちがその公理に最も忠実であることを。試合は究極のところでは、スタイルやパフォーマンスの優劣や勝利に値したかどうかに関係なく、スコアで上回るか下回るか、やるかやられるか、勝つか負けるかしかないのだ。