『光る君へ』中国で「科挙」が発展したのは宋の時代、宋人が「戦に飽き飽きしていた」ワケとは?
■ 道長も驚くほどカタブツだった為時の逸話 今回の放送では、為時が漢詩を詠んで、浩歌(ハオゴー)演じる朱仁聡(しゅじんそう)ら宋の商人たちから、激賞される場面があった。 実際にも、朱仁聡と共にやってきた海商の羌世昌(きょうせしょう)と漢詩を詠み交わしたようだ。平安中期の漢詩集『本朝麗藻』(ほんちょうれいそう)には、為時の漢詩「覲謁之後以詩贈大宋羌世昌」が残されており、「覲謁の後、詩を以って大宋客の羌世昌に贈る」とある。 朱仁聡もまた実在の人物だ。記録によると、暴力事件や金銭受領トラブルを起こしたとされているが、若狭・越前国に5年も滞在しているということは、それほどの大きな事態には発展しなかったのであろう。 ドラマでも、今のところ為時は宋人たちとうまく関係を築いているように見える。どちらかいうと、厄介なのは地元の役人だ。玉置孝匡演じる源光雅は、なんとか新しい国司である為時を懐柔しようと、ワイロを送っている。 だが、為時はそれを拒否。おそらく取り込まれたのであろう前任者とは、スタンスが異なることを見せつけた。そんな為時の融通の利かなさは、娘の紫式部が日記に書き記している。 寛弘7(1010)年正月2日、藤原道長が邸宅で宴を開催し、為時を招いた。為時には音楽の才もあったので、管弦を弾いてもらおうと考えたようだ。 ところが、宴が終わるや否や、為時はさっさと席を立ち、帰ってしまったという。その姿に、紫式部は道長から「お前のお父さんはひねくれている」と、あきれられている。 そんな逸話からしても、おそらく実際の為時もワイロは決して受け取らなさそうだ。また、ドラマでの為時は、誰の批判もしないのが清々しい。自分を官職につかせなかった藤原兼家ですらも恨まなかった。 為時の実直さが、越前の人々にどんなふうに影響を与えるのかにも注目したい。
■ 20年の治世で4000人以上の文官を生み出した「科挙制度」 一方のまひろは、宋人たちにもてなされながら、その文化の違いを興味津々に楽しんでいる様子が見て取れた。 それもそのはず、まひろはかねてから中国に興味を持っていた。弟の惟規(のぶのり)から「大学で新楽府(しんがくふ)が流行っている」と聞けば「読みたい」とせがみ、借りて来てもらい、せっせと写している。『新楽府』とは、唐の白居易(はくきょい)らが「楽府」という形式の漢詩を用いて、当時の政治・社会を比喩したものだ。 さらにさかのぼれば、九州から京都に帰ってきたばかりの藤原宣孝(のぶたか)から、中国(宋)の科挙(かきょ)の制度について聞くと、感激したこともある。宣孝はまひろの父・為時(ためとき)の親戚であり、かつ元同僚だ。まひろとも気心知れた仲だったから、ちょっとした雑談のつもりだったのだろう。 だが、まひろは大胆にも一条天皇に直々にこんなふうに熱弁している。 「低い身分の人でも官職を得て、まつりごとに加われる。 全ての人が身分の壁を越せる機会がある国は素晴らしいと存じます」 科挙といえば、隋の時代から始まった官吏登用試験のことだ。家柄に関係なく受験が可能な能力重視の試験とされながらも、当初はまだ貴族の力が大きく、身分の低い者が取り立てられるのは限定的だった。 そんな中、宋を建国した太祖が、中国統一の目前で急死すると、弟の太宗が内政を固めていき、科挙も大きく発展した。科挙の合格者はうなぎ上りに増えて、20年の治世において、4000人以上の文官を生み出している。 まひろが憧れた「賢才が登用される科挙制度」は、実質的には宋からだと言えるだろう。宋人との交流が今後、まひろの創作にどんな影響を与えるのかも要注目である。