「売れている芸人」と「うまいのに売れてない芸人」は何が違うのか…何十年も落語に通って「たどりついた結論」
見終わったあとの「気分」がすべて
違いは、言葉にしにくい。 醸し出している「何か」が違う。 表情とか手指の動きというわかりやすい部分だけではない。 言葉を出す音の硬さ柔らかさ、声の大小、リズム、そのときの表情、どこで息継ぎをしているか、息継ぎをわざと気づかせるかわからずやるか、下半身の動き、少し宙に身体を浮かせるのか、それらすべてが一体となって出てくる気配によって違いが出る。 どれかが足りなかったときは、指摘できる。 指摘できるったって大人なんだからいちいち言わないけど、それでも欠けてる部分は気づきやすい。 でも指摘しても何の意味もない。 うまい人は欠けている部分がありながらもそれを補ってあまりある魅力が溢れでてくるからだ。欠点がなければ人気者になれるわけではない。逆に変な癖があるほうが売れたりする。もどかしいところである。 だから芸を細かく評しても意味がない。 受け取るのは全体であり、見終わったあとにどういう気分にさせられるかが、すべてなのだ。 同じ噺なのに、違う人が演じると、違うものになるのがおもしろくて、それで長年、落語を見ている。 新しい噺を聞きたいわけではない。
大事なのは、物語より「話者そのもの」
もちろん、新作派の人は、常に新しいネタを聞かせてくれるのだが、新しさにだけ惹かれるわけではない。それを作り出して、話しているその人そのものが楽しいばかりである。 いろんな人がいるものだな、と確認するのが楽しい。 そのために毎日落語を聞いていても飽きないのだ。寄席に行けなくても家で昔の録音を聞かない日はない。 人は一人ずつ違うと確認することが、たぶん、それが人類の「性(さが)」である。 考えているわけではなく、それをただ感じていたい。それが集団で生き延びるための何かの使命なのだとおもう。 いろんな人が同じ噺を演じて人によって違うものだなあ、とおもしろがる。それが落語のひとつの本質であるとすると、やはり、とても贅沢な芸だとおもう。 余裕がないと楽しめない芸でもある。 ストーリーだけ追っていたら、落語の世界はかなり狭い。 近代的な物語世界と比べたら、あっさりしている。 だからこそ、人にとって大事なのは、物語よりも話者そのものではないか、というわけで、そのあたりはゆっくり味わっていけばなかなか深いものなのだ。 まあ、落語をゆっくり聞くというのは、とても贅沢なのだなと、つくづくおもう。
堀井 憲一郎(コラムニスト)